戒壇堂・広目天によせて

 奈良行きの阪神電車の中でのあわただしい予習で町田甲一『大和古寺巡歴』の東大寺戒壇堂四天王立像の項を読み返していて、それらについて、個々の表情ばかりでなく、四体の像容の構成を美としてとらえるべきであることに気づいた。昨年の4月に訪れた際は、土門拳『日本の彫刻(飛鳥・奈良)』のB4版の全面にクローズアップされた広目天多聞天の顔面の、その圧倒的な印象を持ったまま戒壇堂へ行ったものの、像が案外に小さく、ことのほかそれらの体幹・四肢を矮小に感じたために、写真以上の感銘を受けることができなかった。けれども、今回は町田著によって、その配置の妙―表情においては忿怒と沈静の二像がそれぞれ前列と後列に、姿勢においては抑制と高揚の二像がそれぞれ対角にある―について、確かめ、味わいえるのではないかと思われたのだった。

 まだ人の少ない早朝の南大門そばで一服つけ、大仏殿前を左に下る道で戒壇堂に至った。一度下り、大仏殿と同じ標高の堂に正面から入るため、わりあいに長い階段を上ったのだが、堂前についての前回の記憶はなかった。前は大仏殿西側の指図堂から回ったために覚えていないのは単に通らなかったから、ということでもあろうが、春は興福寺から三月堂、二月堂、大仏殿と諸堂諸仏を巡ったあとだったので、私が何かを見ようとする目は既に消耗していたのかもしれない。であれば、時間のたった今日、初めに見た仏について感じ取りうるものは、同じものであっても少しく違うだろう、と期待された。7月に三月堂を改めて訪れた際も、暑いなか浄瑠璃寺や奈良坂付近を歩き回った後で疲れてはいたが、不空羂索観音立像に関するいくつかの評を読み、また朱印に気を取られていなかったせいもあって、落ち着いてその特徴を楽しむことができたことを思い出した。

 南面して薄暗い堂に入った時の印象は以前と変わらなかったのだが、堂内を一見し、そして寺務の方のことわりを聞いて驚いたのは、前列右(東方)の持国天が、像上の壁面が剥落しかかっているため、左側、前列の増長天と後列の広目天の間に移されていたことだった。従って、四像による構成美については、眼前の像容を確かめつつ頭の中で想像するほかなくなったのだが、それはさほど残念に思われず、姿勢に注目することで、両手を下ろした動作休止の状態にある広目天持国天が、その四肢の動きにおいて対称である―両像とも片腕を伸ばし、片脚を心持ち踏み出す(あるいは曲げているの)であるが、それぞれの位置に対して外側の手脚をそうしていることで、外心的な動きを表現している―のに対し、片腕を高く揚げた動作持続の状態にある増長天多聞天が、その上半身においては相似、下半身においては対称の形式にある―揚げているのは両像とも右腕で、かつ、脚は他の二像と同様に外側の一脚を曲げている―ことで、四像が完全に放射的な動きを表しているのではない、言い換えれば増長・多聞の二点の右腕によって、全体としてやや不安定な構成を感じさせる(はずである)ことなどが、興味深く思われた。

 堂に参る人のあるたびに繰り返される寺務の説明を聞き流しつつ、四方を七、八周はしたと思う。そこで私が最も長い時間をかけて眺めたのは、北方の広目天と西方の多聞天、いずれも後列におかれた二体だった。そこで確かめえたのは、両者に共通する美しさと、特に広目天においてのみ感じ取られた印象である。前者は肉眼で像を見る前に触れた土門拳の写真、あるいはその後みた入江泰吉の写真(事後)によっても感じられるものであり、また特に広目天については、その美しさそのものやその美しさの感受にかかる経験がすぐれた感性の持ち主によって既に記されているのであるから、私自身が新たに見出した感想として、その写実的な美や静かで力強い意志の表現について付け加えることはないかもしれない。

 曰く、「その中でも、この廣目天は、何事か眉をひそめて、細目に見つめた眼ざしの深さに、不思議な力があつて、私はいつもうす暗いあの戒壇の上に立つて、此の目と睨み合ひながら、ひとりつくづくと身に沁み渡るものを覺える。(會津八一)」「たとえばあの西北隅に立っている広目天の眉をひそめた顔のごとき、きわめて微細な点まで注意の届いた写実で、しかも白熱した意力の緊張を最も純粋化した形に現したものである。(和辻哲郎)」「僕は一人きりいつまでも広目天の像のまえを立ち去らずに、そのまゆねをよせて何物かを凝視している貌を見上げていた。なにしろ、いい貌だ、温かでいて烈しい。……(堀辰雄)」「...むしろ内なる激情を圧えるような深刻な表情を示す多聞天広目天の感情表出の方に一層注意がひかれよう。...相貌、とくに人間的感情の表出のごときは、明らかに作者の積極的な芸術的意図による表現であって、そこに新しい意味を、われわれは見てとらねばならないわけである。(町田甲一)」「全体として感じるのは、一種沈痛の表情である。...何かに耐えている内面的な意志の強さをあらわす。(直木孝次郎)」などである。

 しかし、その場で私が両像に見出した内的姿勢を言い表すならば、これら遠くに視線を投じる二体は、知性によって邪なるものを捉え、破ろうとしている。忿怒の像と違い、外的な邪悪を威嚇し近寄せまいとするのではなく、眼に届く限りの不正―それは本来、仏法あるいは仏国を破壊するものであろうが―をなるたけ早く察知し、疑い、糺そうとする意志を示している。像はそれほど大きくはないが、その視線の結ばれる点は、明らかに堂外の遠方にあるか、無限遠の状態にある。また、疑いといっても、仏に仕える天である以上、それは自我に執着するがゆえの人間的感情としての疑念ではなく、眼にしたもの―あるいは知覚されたもの―について「それが何であるか」を吟味し、見通そうとする、理性の働きによるものである。そして、その沈静は、見ること以外の対象への働きかけを放棄しているのではなく、見たものを邪なるものと判断するや否や、それ以上に浸透させず、滅しようとする動きを予感させる。これらの感想は、像の傍においても、視線の正面においても感じ取られ、かつ二像からほぼ同程度に感じられたことであった。

 以上の印象が、特に広目天の側においてより強く得られたとすれば、それは二像の顔貌の部分的特徴によるのかもしれない。第一に、広目天は眉根を寄せ、強く緊張している(それによってか、持国・増長天と同様に、人体にはあり得ないはずの隆起が眉間に生じている)。対して多聞天は、眉のひそめ方はそれほどでもない一方で、強く結ばれて下がった口の端と、それによって生じた小鼻からの皺によって、口元の持続的緊張が明らかである。いずれに注目し、いずれに透徹した知性あるいは破邪の意志を看とるかは、個人によって差もあるはずだが、會津八一「びるばくしゃ」歌をはじめ上に引いたような外的なことばによっても、「それが何であるか」という内的なことば―それは写真または実物に触れてのち、今日より前のいずれかの時点で私が得たものであるが―によっても、広目天像の凝視のほうにずっと心が傾いたと言える。しかし実のところそれは、両者に共通する印象を強調するものであっても、広目天独特の印象を与える、という性質のものではなかった。

 というのも、第二に、広目天には、多聞天にない表情の展開が感じられたのである。それは多聞天にある口元の緊張がない―緩んでいるというわけでは勿論ないにしても、その両唇の曲線がゆるやかであり、角度によっては水平にも見える―ということに関係しているだろう。といっても、堂内の観察者私が、そのような消極的な分析をその場でし得たわけではない。そうではなく、もっと直接的に、私には、左斜め前から眺めた広目天の口角が、少し上がって―つまり笑みをたたえて―いるように感じられたのである。凝視と微笑を両立させた表情、それが何であるか。すぐに思われたのは、騙せるものなら騙してみろ、というような不敵ないし挑戦の笑みである。しかしそれらは、疑念と同じく、傲慢を離れよと説く仏の守護者にはふさわしくない。なおのこと、我やお前がどうであろうと知ったことか、というような自他の破滅を楽しむような虚無の笑みでもない。つまり、捉え得た不正に対して、それを駆逐することに快さを覚えて三毒に呑まれるのでもなければ、それと格闘することを放棄して断滅の誘惑に身をまかせているのでもないということである。

 とすれば、それは一種の余裕、あるいは判断にかかる溜めの深さを表す相好ではないか。巧妙な嘘や聖を装った俗は、時に遠方への視線をすり抜けて、自らの近傍において初めて邪なることを発露するかもしれない。しかし悪がそのようなものであることを充分に承知しているならば、その巧妙さや看破の難しさにたじろぐことはない。あるいは、ある人間の行がいかに愚かで醜いものと感じられても、まず、それがそういうものである、という判断は別にあって、やはり意志をゆらがせるものではない。眼差しの強さとともにある微笑みから、私が堂内で想像し、帰路(といってもその日は戒壇堂が出発地点であり、日が暮れるまで諸堂を歩き回ったのであるが)に言葉にしえたのは、そうしたことどもである。

 あるいは、この小文を書きながら気づいたことを付会するならば、巻子と筆を持つ広目天は、「それが何であるか」を理解するのみならず、それを余さず記録しようという構えにおいて、破邪に備える力の蓄積を具体的に解釈することができる。あるいは、口元のわずかな緩みに、沈黙ではなく発声を感じとるならば、破邪そのものが言葉―しかも重く静かな―によって行なわれようとしていると見ることもできるだろう。

 むろん、それらは、未熟な観察者私が、たまたま冬の朝八時半の東大寺戒壇堂において、きわめて個人的かつ局時・局地的に思い描いたことである。ことに、薄暗い堂内であっても陽の光は射していたのだから、それが季節や時間によって諸像に与える変化は一様ではない。あるいは、かつては各像が今とは異なって中心を向いており、しかも壇上に上がることができたというから、間近から顔貌を観た先賢が記したことがやはり本質なのかもしれない。いずれにせよ、広目天の微笑みについては、他の観察者をともなうか、別の日時に訪れるかして―四体の本来の配置の特徴とともに―また確かめるほかはない。

 しかし仮に、二度と戒壇堂を訪れることがなく、あるいは二度と広目天は笑っては見えなかったとしても、遠くに放たれた「まゆね よせたる まなざし」は、いずれの場所と時間においても、まなこに見続けることができると私は思う。それは写真や歌による先人のすぐれた芸術的表現によっても思い出されるのだが、むしろ私個人においては、広目天に強く結びつけられた「それが何であるか」という言葉と、その源にある強靭な究明の構えを想起するたび、可能であるように思われる。