一人では行かなかった場所について(2018.6.18)

 湖東三山を巡って永源寺に向かう道中、同行の黒木さんがつい最近一人で参られたばかり、と聞いて、少し申し訳なく思っていた。永源寺の後は特に予定がなかったので、太郎坊宮にでも行きましょうか、という話もしていた。太郎坊宮には数年前に行ったことがあったのだが、面白い土地だったので再訪するのもまた楽しかろうと思われた。と、拝観後、以前に行かなかった永源寺ダムのあたりに行ってみようか、と言ってくださったので、ありがたくそちらに車を向けた。

 ダムの手前に奥永源寺の道の駅があったので、お昼寝をする黒木さんを残し、一服することにした。そこで周辺のマップを見ていると、そこから北上して百済寺の裏に出るルート上に「木地師資料館」や「惟喬親王陵」といった気になる場所を見つけた。次は私の提案でそちらに向かうことにした。

 道の駅はもと中学校だったのを廃校後に改装したということで、国道421号線を北に折れ県道に入ると、道は細く険しく、人家も少なくなった。10分ほど行って細い川のそばにある木地師資料館に着いたものの、普段は無人で、数日前に予約しなければ見られない、ということだった。資料館と同じ敷地にある筒井神社は惟喬親王を祭神にしており、その由緒書きや碑によって、近江に隠棲した親王が在の杣人に轆轤を使った木工の技術を伝えた、という伝承が今も生きているらしいことがわかった。

 このあたりから、観光寺院と打って変わってやや不穏な道行きを二人とも面白く感じ始めた。親王陵にはそこから5分ほどで着いたはずだ。まだ明るい時間帯だったが、林を縫う細い道は暗く、対向車もなかった。心構えなしで来た不安さもあってか、もっと時間がかかったように感じる。

 道沿いの駐車場から、左手の山の斜面に、かなり大きな親王の坐像と鳥居が見えた。鳥居をくぐって斜面を少し登った左手には開けた空間と小さな社とがあった。もともとこちらに神社(親王の住まい)があったらしいことは、先程の筒井神社で見た由緒で想像できた。しかしこちらには人の訪れを予期した看板などはなく、親王像の土台にはめ込まれた金属板の説明も、なにやら要領を得なかった。

 小さな社の前にある、屋根付きの集会場(最近作られたらしい)や、さらに登って右手にある、遥拝所のように囲われた碑については、その場では得体の知れないものにしか感じられなかった。コンクリートの舗装は粗く、坂をところどころ山から流れてくる水が横断していた。その先にも林業で使われることもあろうか、という広場があり、道は山の中へと続いていたが、さすがにそれより先に進む勇気はないことを二人で確認し、その場を後にした。

 そこから先は、突然聞こえてきた車の左前輪の異音にびくついたり(音は親王陵に着く直前からし始め、去ってすぐ消えた)、いっそう細くなった車道を豪快に水流が横切っているのを驚きながら渡ったりと、永源寺までの名刹めぐりに比すると格段のシュールさを楽しみつつ、ぶじ百済寺の裏に出ることができた。そういえば四月の東近江市でのももクロライブのオープニングで、市長が鈴鹿山脈が背後に控えていることを言っていたが、その山麓と山中をつかのま堪能したわけだった。

 旅、それも「行ったことがない場所に通ったことのない道で行くのが好き」という黒木さんが楽しんでくださって何よりだったのだが、それにも増して、最近は決めた行き先(寺社)ばかりを回っていた自分が、一人では決して行かなかったであろう場所を訪れることができたのが嬉しかった。

 失礼な言い方かもしれないが、木地師資料館も惟喬親王陵も、かなりの旅達者か好事家でなければ訪れたいと思うようなところではない。親王が非業の死を遂げた人物ではないにしても、不遇がまつわる場所ではあり、一人で行けば心細くて仕方がなかっただろう。そのような場所について、親王陵に着いてすぐ、私は過去のある旅を連想していた。

 というのは、数年前の秋、知人と北陸を車で旅行した際のことである。小浜港で遅い昼食をとったあと、すぐに帰ってもよかったのだが、その知人の希望で「暦会館」なる歴史資料館に寄ることになった。何でも陰陽道宗家の土御門家(安倍氏)ゆかりの地だそうで、私は特に興味もなかったのだが、小浜から国道162号線で南下した大飯の名田庄というところにあって、道の駅に併設されている(帰路に着く前に休憩できる)、ということだったし、北陸道敦賀に入った旅行を終えるにあたり、そこから京都縦貫道に出ると美しい一筆書きのルートになると思われたので、喜んで向かうことにした。

 道は渓流に沿って丹波高地に入る方角だったが、平坦で走りやすかった。会館に着いたのは日暮れ近くだった。展示の内容は私には基本的に難しく、またやや陳腐にも感じられたが、知人はそこでしか買えないであろう郷土史を購えたことを喜んでくださった。道の駅で一息つきながら、近くに土御門家の墓所があることを確かめ、最後の目的地とすることにした。

 墓所は車で国道を少し戻って細い車道を山にむかって登ったところにあった。まず茅葺きの大きな薬師堂が目に入った。人気はなく、堂に上がるためのスリッパは埃と虫だらけだった。

 そこから先の印象は、今回の親王陵のものに上書きされてしまって定かではない部分もある。しかし、深い山に分け入る谷間にあり、法要などの行事を除けば「本当にここに入ってよいのか」と思われるほど人の訪れた形跡のないこと(墓所の入り口には厳重にも金網が設置してあった)、史跡としては非常に質素で、由緒書きはなかったか、あっても風化が進んでいたこと、写真を撮る気にならなかったこと、などが共通点として思い出される。観光地として来るところではなく、といって心霊スポットにしても、おそらく怪談とは無縁の静かな墓所であるぶん、怖さと不穏当の度が過ぎるように感じた。

 既にその旅では、知人の希望により、敦賀山田孝雄が務めていた小学校で顕彰碑を見たり、小浜で「お水送り」が行われる若狭神宮寺義門の墓に詣でたり(これらは私の希望でもあったが)、車でないと行きにくく、かつ十分に「渋い」場所を訪れていたのだが、黄昏時の墓所のあやしい雰囲気は知人の想像をも超えていたようだった。

 一人で車に乗って無茶な遠出をすることも楽しいが、いかに時間と行程に余裕があって、観光マップに小さな字で書かれるような郷土の史跡に少しばかりの興味があったとしても、上記のような場所に一人で立って歴史の空気を楽しめるほど、私は図太い性根をしていない。霊感があるわけでもなく、また神隠しなども信じてはいないが、一人でいて不安と非現実感に陥りかけたことも一度ならずあった。

 例えば、昨年夏に佐渡を訪れた時のことである。真野宮は流刑の順徳院を荼毘に付した地で、不釣り合いに俗っぽい観光施設が隣接していた。着いた頃は夕暮れにはまだ早い青空だった。ただ観光施設はもう閉まっていたので、周辺をあてもなく見て回っていたところ、観光客が去るのと交代するかのようにひぐらしが鳴き始めた。本殿の方をふと見ると、神職と思しき老人が一人、なぜか縁にじっと腰を下ろしていた。それを遠目で眺めていると「ここで何をしているのだろう」という気持ちで、夏の風情が妖しくぼやける気がした。翌日朝に訪れた金山近くの「無宿人の墓」では、あまりの寂しい光景に、もっとはっきり「このような場所に一人で来るのではなかった(といって、誰となら一緒に来られるというのか!)」という気持ちになった。

 一方、しっかり記憶を辿れば、決して多くはない他の人との旅で、心細さを風情に変えてもらったことが幾度かある。晩夏の浦島神社と伊根の海、のどかな春の由良湊、岩船寺から浄瑠璃寺へ石仏をたどる秋の道…。二人の先輩も、変なところに来てしまったことを咎め合ったりせず、好奇心と不気味さ、あるいは非現実さの危ういバランスを感じつつも「一人では来ないところだねぇ」と笑ってくださった。

 いずれも、一人では行かない場所に行くために道連れを求めたのではない。人生のある一時に、気まぐれと風変わりな旅を愛する道連れを持てたことのほうが、代えがたい思い出であるに違いない。

(2018.6.18)