大西巨人「クリエーティヴ・パワー」の出典

はじめに

 大西巨人の「人は、クリエーティヴ・パワーを持続して長生きをしなければならない」という文言について、出典を示しながら引き写す。当該文言は、1986年発表の短編小説「墓を発く」に初めて掲出され、「以後の大西作品において持続的に考察されるテーマとなっている」(『未完結の問い』53頁、山口直孝氏作成の注)。筆者個人にとっても、折にふれ思い出される寸言である。

 当該文言には、ウェブ検索で見つかる記事から確認できるバージョン(下記0)もあるが、当該記事では出典は明らかでない。また、上記「墓を発く」とは細部が異なっている。

 そこで、本稿では、正確を期し、当該文言が初めて掲出された「墓を発く」(下記1)および他作中での引用・言及(下記2以降)につき、出典を示しながら、前後の文脈とともに引き写しておく。ついでに、筆者が興味を覚えたポイントもメモしておく(下記💡)。

 ただし、当該文言の探索は、現時点で本稿で引用・言及した文章の範囲に留まる。小説『精神の氷点』『地獄変三部作』『深淵』、評論集『大西巨人文選』『日本人論争:大西巨人回想』などはすべて未確認である。

 なお、下記で示す大西巨人の執筆時の年齢は、死後に確定した生年の1916年に基づく。

 

(0)朝日新聞の記事より

 ウェブ検索で当該の文言が確認できる記事として、朝日新聞の記事があったようだ。元記事は削除されているが、ブログ記事「古本屋通信 No799 4月14日 追悼・大西巨人」の中で、当該記事の内容が引用されている。ただし、初出の文章である(1)短編小説「墓を発く」に基づくのではなく、(3)「胃がん」、(4)『迷宮』での作中引用と同じようである。

朝日新聞デジタル
高雅な文章にユーモアが伴走 大西巨人さん死去
近藤康太郎 2014年3月13日05時31分

(略)

 老年になっても創作を続けた。「人は、クリエーティヴ・パワーを持続して、長生きをしなければならない。もしくは、人は、長生きをするなら、クリエーティヴ・パワーを持続しなければならない」と大西さんは作品のいくつかで登場人物に語らせた。97歳で亡くなった大西さんと重ねては、また怒られるだろうか。

 

(1)初出:短編小説「墓を発く」より

初出:『朝日ジャーナル』1986年10月10日(執筆時70歳)

引用元:『二十一世紀前夜祭』2000年8月30日光文社刊、35頁

 大津は、『「今年九十六歳」の「長兄」に「今年四つの娘」があるなら、その娘は「長兄」が九十二歳のときに三十七歳の「五人目の細君」に生ませたのだなぁ。』と考えて、たいそう感動した。

 それから十余年が過ぎて、昨今の大津は、あの高年労務者とほぼ同年配になった。「老い」の弱気を自覚することが、おりおり大津にある。そんなとき大津は、葛飾北斎の「七十五歳までの自分の仕事は、習作である。」という言葉とか蓮如が八十歳を過ぎて子供を二人も作ったこととかゲーテ晩年の生き方・仕事ぶりとか思いを馳せ、なかんずくあの「長兄」の上に想いを馳せて、みずからを鞭撻する。

 ……『人は、しかくクリエーティヴ・パワーを持続して長生きをしなければならない(あるいは、人は、長生きをするなら、しかくクリエーティヴ・パワーを持続しなければならない)』。……

💡 「クリエーティヴ・パワー」を含むこの文言が、単に主人公・大津の創作力を言及・鞭撻しているのではなく、旺盛な生殖力によって連想・喚起させられ、また生殖力をも言及・鞭撻する(し得る)ものであることに留意。

 

(2)作中引用:長編小説『三位一体の神話』(上)より

初出:単行本1992年6月光文社刊(執筆時76歳)

引用元:『三位一体の神話』(上)光文社文庫刊、2003年7月20日刊、311-312頁)

(下線部は(1)「墓を発く」と異なる部分)

 大津は、『「今年九十六歳」のに「今年四つの娘」があるなら、その娘はその男が九十二歳のときに三十七歳の「五人目の妻」に生ませたのだなぁ。』と考えて、たいそう感動した。

 それから十年が過ぎて、昨今の大津は、五十代の半ばさしかかった。「老い」の弱気を自覚することが、たまさか大津になくもない。そんなとき大津は、北斎の「七十五歳までの自分の仕事は、習作である。」という言葉とか蓮如が八十歳を過ぎて子供を二人も作ったこととかゲーテ晩年の生き方・仕事ぶりとか思いを馳せ、なかんずくあの「今年九十六歳」の男に想いを馳せて、みずからを鞭撻する。

 ……『人は、しかくクリエーティヴ・パワーを持続して長生きをしなければならない(あるいは、人は、長生きをするなら、しかくクリエーティヴ・パワーを持続しなければならない)』。……

〔短編小説『展墓』、一九七四年〕

💡 現実の小説「墓を発く」(1)を素材とした、作中登場人物の作家・尾瀬路迂を書き手とする架空の小説の引用である。尾瀬の(早期の)自殺が自殺でないと推理させる根拠となる文章の一つとして挙げられている。作中の出来事(1975年の殺人、1982年の発覚)に合わせてか、初出年は現実の1986年ではなく1974年とされている。

 

(3)作中引用:短編小説「胃がん」より

初出:『群像』1993年12月号(執筆時77歳)

引用元:『五里霧』1994年10月25日講談社刊、①118-119頁、②127頁、③129-130頁

①(A)土岐は、彼自身の健康とは無関係にも、がん関係の書物を、以前からいくらか読んでいた。彼は、ベッド空き待ちを指示せられたとき、『おれの病気(このたびの「手術のための入院」の原因)は、がんであるにちがいあるまい。』と直感的に考えた。しかし、土岐は、その直感的な考えから、なんら衝撃・悲観・恐怖の類を受け取りはしなかった。

 土岐は、たとえば近年における彼のあるエッセイの中に、「人は、クリエーティヴ・パワーを持続して、長生きをしなければならない。もしくは、人は、長生きをするなら、クリエーティヴ・パワーを持続しなければならない。」と書いた。それは、ある意味においては、ずいぶん傲慢な・思い上がった考え方・言い方でもあろう。だが、そういう考え方・言い方と土岐の既往生態との間には、抜き差しならぬ窮極的な由来関係が、存在するのであった。

 土岐の少・青年時代は、十五年戦争時代と、おおよそ並行していた。若い(少年後期および青年前期の)土岐は、一方では『おれは、三十過ぎまで生きることは、きっとなかろう(まちがいなく戦争で死ぬだろう)。』と考え、他方では『もしもおれがあるときみずから信じたように、卓抜・有意義・潜勢的なクリエーティヴ・パワーを持っていて、その潜勢力が三十過ぎおよびそれ以後にも持続して開花するのならば、おれは、どんな兵戦の只中に投げ込まれようとも、必ず死なずに三十歳以後の時間へ歩み進むだろう。』と考えた。

💡 作中時間は1982年6月である。主人公・土岐は胃癌の手術を前に、十五年戦争時代の考え方(思想)を振り返りながら、自らが死を恐れていないことを認める。この文章が(0)朝日新聞記事における引用と一致する。

💡 十五年戦争時代の考え方についての記述(上記①(A)下線部)は『神聖喜劇』冒頭の主人公・東堂の述懐(下記下線部①)が核になっている。さらに、当該述懐に続く「戦後の死ななかった私」の回想(下記下線部②)は、「胃がん」中でも言及されている(下記①(B)下線部)。以下『神聖喜劇』を引用する(引用元は光文社文庫版『神聖喜劇』第1巻、35頁)。

 一つの奇怪な想念が別に私にあったのを、私は自白しよう。それはまた前記の二断面と撞著するに似る思想であった。①もし私が、ある時間にみずから信じたごとく、人生において何事か卓越して意義のある仕事を為すべき人間であるならば、いかに戦火の洗礼を浴びようとも必ず死なないであろう。もし私が、そのような人間でないならば、戦野にいのちを落とすことは大いにあり得るだろう。そして後者のような私の「生」を継続することは私自身にとって全然無意味なのであるから。いずれにせよ戦場を、「死を恐れる必要は私にない。——②「生」にたいするこの言わば「傲慢な思い上がり」は、戦後の死ななかった私に、人生の手きびしい返報を齎しつつあるかにもみえる。あるいは、死ななかったことそれ自体が、そういう私にたいする「生」の皮肉な報復であったかもしれない。

なお、上記下線部②については、『三位一体の神話』(下)173-174頁にも引用があるが、ここでは省略する。

💡 以上の点、すなわち「胃がん」において主人公が十五年戦争時代(≒『神聖喜劇』の作中時間)の主人公における死生観(「自らが卓越していれば死なない」という考え方)と、それが戦後「傲慢な思い上がり」とも考えられたことという回想している点を踏まえて、「胃がん」の引用を続ける。

①(B) 後者のような考え方(思想)は、土岐が生活の日常(普段)において「死ヲ視ルコト帰スルガ如シ。」とか「死ヲ視ルコト生ノ若シ。」とかいうような境地に住し得た、ということではなく、依然として<死>を恐怖したものの、生活の極限状況(土壇場)においては“それだから、<死>を恐れる必要(理由)は彼にない”と覚悟した、ということであった。

 そして土岐は、事実として、戦後(三十過ぎ)まで生き延びた。それは、単なる「偶然」、ただの「幸運」ないし「僥倖」でしかなかったのかもしれない。彼は、「碌碌と消光して馬齢をかさねた」ようなものとして彼自身を省み、十五年戦争中の、なかんずく太平洋戦争中の、「潜勢的なクリエーティヴ・パワー」云云の「思想」を振り返って、『<生>にたいするあのような「傲慢な思い上がり」は、<生>の手痛い報復を戦後の生きているおれに加えつつあるかのようだ。あるいは、戦後に生きていることそれ自体が、戦時のあんなおれにたいする<生>のアイロニカルな仕返しだろうか。』というように批判的に考える時間もたびたびあった。

 しかも、それでいて、土岐は、五十代・六十代にも、「人は、クリエーティヴ・パワーを持続して、長生きをしなければならない。もしくは、人は、長生きをするなら、クリエーティヴ・パワーを持続しなければならない。」と書いて発表する(すなわち信ずる)のであった。むろん土岐は、職業言論公表者として、その責任において、みずから信ずる事柄でなければ、それを書いて発表することは、しないのである。

 

② 個室の闇中で、土岐は、ようやく眠りに入ろうとしていた。がんの問題はなくても(それが胃潰瘍治療のためであっても)、開腹手術は、一つの大事である。それにしても、土岐は、現在の彼自身を「生活の極限状況(土壇場)」に臨んでいると考えるのではなかった。しかし、土岐が明日の手術などに恐怖ないし不安を抱かないのは、究極的には、「おれにはなおクリエーティヴ・パワーがあるのなら、おれは、必ず死なぬはずだ。」という「思想」に彼が依拠しているからであった。

 

③ その後、十一年が経過した。十一年間、土岐の体調は、おしなべて良好であった。「五年生存率」ということが、よく言われる。それからして、土岐は、転移とか再発とかに関して、甚だ好結果であるにちがいない。それに、早期胃がんは、今日では、通時的ないし社会通念的にも、おおかた「不治の病気』すなわち死病・大難病ではなくなっているようである。

 しかし、土岐には、二つの解けぬ謎がある。彼が今日まで生き長らえているのは、「クリエーティヴ・パワーを持続している」ことを証拠立てるであろうか、というのが、謎の一つであり、十一年前の手術中に彼が彼自身の「濃厚」な閨房生活の委細をしゃべったろうかしゃべらなかったろうか、というのが、謎の他の一つである。

💡 なお、作中登場人物(主人公)の土岐ではなく、大西巨人が「あるエッセイの中に(上記引用①(A)」、また「五十代・六十代」にも(上記引用①(B)、「クリエーティヴ・パワー」の当該文言を書いたという事実はあるのだろうか。筆者には確認できていない。初出の(1)「墓を発く」は小説であり、また発表時点で大西巨人は既に70歳(あるいは60代後半)である。

 

(4)作中引用:長編小説『迷宮』より

初出:単行本1995年5月光文社刊(執筆時79歳)

引用元:『迷宮』光文社文庫、2000年2月20日刊、①77頁、②288-289頁

① 天志は、だまって聞きつづけた。言うまでもなく、文成は、だまっていた。

「ここでいま私が、私の『人格者』云々』との関連において、なかんずく関心を持つのは、アンドレーエフの『人間にとっては、愛と注意か、あるいは——その人間にたいする恐怖が必要なのだ。……ナポレオンが愛されたように、恐怖をもって愛される人は、誰よりも恐怖なんだ。』という言葉です。とにかく、……以前に、私は、『人は、クリエーティヴ・パワーを持続して、長生きをしなければならない。もしくは、人は、長生きをするなら、クリエーティヴ・パワーを持続しなければならない。』と書いた。この命題にも本来それ相応の付注が必要にちがいなかろうが、いまここでは、私は、それを省略する。『人格者』云々も、とどのつまり、その命題と同様の思想なんだ。

💡 本作中の引用の文脈は「『人格者』云々」への言及である。以下、71-72頁から引用する。

「この話には、だいぶん注を加えないと、大方の人たちは、誤解しかねない。しかし、君〔大三〕には真意が通ずる、と私は思うから、注や断りはいっさいなしにする。相撲取りでも、たいそう強い相撲取り、たとえば最盛期の横綱は、——これは、別に『横綱』でなくて、ただ『強い相撲取り』でいいのだが、話をわかりやすくするため、私は、『横綱』を例にしたのだ。いや、これも、『注』の類か、——仲間の相撲取りたちからはもちろん、観客たちや報道関係者たちなどから、一面では憎まれたり恐れられたりしている、と私は考える。テレヴィまたはラジオのアナウンサーたち、仲間の力士たち、その他から『土俵態度がいい。』とか『稽古に熱心だ。』とか『若い者の面倒見がよい。』とか主に言われるようになり『人格者』扱いされだしたり、観衆から妙に同情的な大声援を受けだしたり、するようになったら、もう彼は、衰退の一途を辿っている。ほかのどの分野でも、事の本質は、おなじだ。わかるね?」

「はい。」

「とりわけ文芸の世界では、実相は、そういうことだ。たとえば小説家が、『人格者』とか『円熟した人柄』とか言われるようになり『私・心境小説』ないし『身辺雑記小説』を『奥床しく』執筆しだしたり、『東洋的』な・あるいは『日本的』な静謐の境地に沈潜しだしたり、するようになったら、その人間の制作活動は、もうお仕舞です。”とりわけ文芸の世界では、実相は、そういうことであるべきだ。(引用者注:「であるべき」に圏点)”と私は、言い換えてもいい。むろんここでも、私は、私の言葉に、自己実行の問題として、責任を持たねばならぬ。……ちょっと待ちたまえ。」

最後に、末尾近くから。

②「〈知行鍛錬運動〉の一九八八年夏期研修会で「『幽霊』について・その他」の話をしたとき、皆木さんは、「アルツハイマー病・老年性痴呆」に正対して、その「最も中心的な恐怖(最大の恐怖)」を切々と語った。当時のかなり以前から、すでに皆木さんは、その種の病気(異常状態)においては「『病識』がないということ」にたいする恐怖、言い換えれば「クリエーティヴ・パワーの喪失」にたいする恐怖を具体的・現実的に感じ(始め)ていた、と僕は考える。「人は、クリエーティヴ・パワーを持続して、長生きをしなければならない。もしくは、人は、長生きをするなら、クリエーティヴ・パワーを持続しなければならない。」という信念の堅持者にとって、「高年齢性の痴呆一般」が彼の「生」における「最も中心的な恐怖(最大の恐怖)」なのは、大いにあり得るべき事態です。

💡 ここでは、「クリエーティヴ・パワーの喪失」が「高年齢性の痴呆一般において病識がないということに対する恐怖」を意味していることに留意する。

 

(5)作中引用:エッセイ「凡夫の慨嘆」より

初出・引用元:『現代思想冒険者たち 第06巻 ルカーチ:物象化』「月報」24号、「心に残る思想の言葉 24」、2-5頁、1998年5月10日講談社刊、(執筆時82歳)

 著者は、冒頭に「人は、まるまる創作者になりきるためには、死んでいなければならない(トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』)を掲出し、当該掲出文を「文筆業開始以後の約五十年来」「念頭に置いてきた」が、しかし、昨今の著者は「その以前の私が掲出文の意義を十全には理解していなかった」と省みる。そのうえで、(1)「墓を発く」を引用しつつ、「クリエーティヴ・パワー」の当該文言について次のように述べる。

(下線部は(1)「墓を発く」と異なる部分)

 叙上の実情を理論的ないし理路整然的に説明することが、遺憾ながら、さしあたり私にできない。それでも、たよりない感覚的説明を、私は、しばらく強いて試みる。

 ——十一年前[一九八六年]、私は、文筆家大津太郎を主人公とする一短篇小説[『墓を発く』]の末尾に、「それから十余年が過ぎて、昨今の大津は、あの高年労務者とほぼ同年配[六十代半ば]になった。『老い』の弱気を自覚することが、おりおり大津にある。そんなとき大津は、葛飾北斎の『七十五歳までの自分の仕事は、まだ習作である。」という言葉とか蓮如が八十歳を過ぎて子供を二人も作ったこととかゲーテ晩年の生き方・仕事ぶりとか思いを馳せ、なかんずくあの『長兄[当時九十六歳にして四歳の女児の父親、彼の五人目の妻は当時四十一歳]』の上に想いを馳せて、みずからを鞭撻する。/……『人は、しかくクリエーティヴ・パワーを持続して長生きをしなければならない(あるいは、人は、長生きをするなら、しかくクリエーティヴ・パワーを持続しなければならない)』。……」と書いた。……

 ……ひたすら主人公文筆家大津に即し、もっぱらその自戒ないし自律の心内語として、私は、「人は、クリエーティヴ・パワー」云々を書いたのであった。しかし、その言葉は、——「人は」という主格使用のせいもあって、——人間一般の生き方に関する(作品ないし作者の)主張と江湖に受け取られかねない(ある程度まで実際に受け取られた)。それは、そういう嫌い・そんな難点を多かれ少なかれ内含するようである。すなわち、私の確信によれば、文筆家・言論表現公表者は、そのような命題[「人は、クリエーティヴ・パワー」云々]を「人間一般の生き方(the way that human life in general should be)」として披露してはならぬのである。……

 ……もしも私が掲出文の意義を十全に理解していたなら、私の言語表現(作品)は、もっと別の様式を踏まえたはずではなかろうか(それにたいする大方のそのような誤読は、万が一にもなかったはずではあるまいか)、——そんな反省の思考が、昨今の私(『トニオ・クレーゲル』制作時のマンより約三倍も年歯をかさねた私)を捕らえている。それだから、そういう場合にも、そのたびに私が、『やはりおれは、凡夫だなあ。』と慨嘆せざるを得ない。……

なお、上記エッセイについては、山口直孝(2003)「単純な理念を持続すること:大西巨人素描」『『昭和文学研究』46、pp.42-55に下記のような言及あり。

(引用者注:『迷宮』の)旅人の行為が告げているのは、「クリエーティヴ・パワー」を発揮できず、分別すら失われた場合、もはや人は人たりえず、そのような存在を自ら消滅させることは是である、という意志である。個であるということは、自己の引き受ける範囲を選択でき、それについて責任を持つことのできる人格を備えていることが要件となる。その前提が崩れた場合、個はもはや同じ存在であることができない。そのような時に、人が同一性を保っために死を選ぶことは、やはりヒューマニズムの実践と見なせよう(当然のことながら、こうした行為は、あくまで自発的になされなければならず、何人にも強要されるべきことではない。大西自身、「クリエーティヴ・パワー」をめぐる発言が、必ずしも一般命題として提出されたものではないことを「〈心に残る思想のことば 24〉凡夫の慨嘆(52)」で表明している)。とはいえ、当為として導き出された変型の自殺が、旅人・路江の二人によって何ら感傷的な色彩を帯びることなく実行されているのは、一つの驚異として、印象づけられる。

💡 以上にみたように、「クリエーティヴ・パワー」の当該文言が掲出・引用・言及された文脈ないし意図はそれぞれ異なっている。すなわち、以下のようである。

(1)「墓を発く」では、主人公の「「老い」の弱気」に対する鞭撻として

(2)『三位一体の神話』では、登場人物の自殺が自殺でないことを推理させる根拠として

(3)「胃がん」では、手術に臨んで死を恐れない主人公が信じる事柄として

(4)『迷宮』では、制作活動の衰退および病識のない高年齢性の痴呆に対する登場人物の恐怖のとして

(5)「凡夫の慨嘆」では、文筆家・言論表現公表者が信じる命題の表現様式の反省として

 そして、こうした多様な掲出・引用・言及のし方がなされる当該文言の根底にあるのは、(3)にあるように、言論公表者の「既往生態との間」にある「抜き差しならぬ窮極的な由来関係」をもつ、「職業言論公表者として、その責任において、みずから信ずる事柄」であって、それは、(4)にあるように、言論公表者が「自己実行の問題として、責任を持たねばならぬ」ものであるということである。