大西巨人「クリエーティヴ・パワー」の出典

はじめに

 大西巨人の「人は、クリエーティヴ・パワーを持続して長生きをしなければならない」という文言について、出典を示しながら引き写す。当該文言は、1986年発表の短編小説「墓を発く」に初めて掲出され、「以後の大西作品において持続的に考察されるテーマとなっている」(『未完結の問い』53頁、山口直孝氏作成の注)。筆者個人にとっても、折にふれ思い出される寸言である。

 当該文言には、ウェブ検索で見つかる記事から確認できるバージョン(下記0)もあるが、当該記事では出典は明らかでない。また、上記「墓を発く」とは細部が異なっている。

 そこで、本稿では、正確を期し、当該文言が初めて掲出された「墓を発く」(下記1)および他作中での引用・言及(下記2以降)につき、出典を示しながら、前後の文脈とともに引き写しておく。ついでに、筆者が興味を覚えたポイントもメモしておく(下記💡)。

 ただし、当該文言の探索は、現時点で本稿で引用・言及した文章の範囲に留まる。小説『精神の氷点』『地獄変三部作』『深淵』、評論集『大西巨人文選』『日本人論争:大西巨人回想』などはすべて未確認である。

 なお、下記で示す大西巨人の執筆時の年齢は、死後に確定した生年の1916年に基づく。

 

(0)朝日新聞の記事より

 ウェブ検索で当該の文言が確認できる記事として、朝日新聞の記事があったようだ。元記事は削除されているが、ブログ記事「古本屋通信 No799 4月14日 追悼・大西巨人」の中で、当該記事の内容が引用されている。ただし、初出の文章である(1)短編小説「墓を発く」に基づくのではなく、(3)「胃がん」、(4)『迷宮』での作中引用と同じようである。

朝日新聞デジタル
高雅な文章にユーモアが伴走 大西巨人さん死去
近藤康太郎 2014年3月13日05時31分

(略)

 老年になっても創作を続けた。「人は、クリエーティヴ・パワーを持続して、長生きをしなければならない。もしくは、人は、長生きをするなら、クリエーティヴ・パワーを持続しなければならない」と大西さんは作品のいくつかで登場人物に語らせた。97歳で亡くなった大西さんと重ねては、また怒られるだろうか。

 

(1)初出:短編小説「墓を発く」より

初出:『朝日ジャーナル』1986年10月10日(執筆時70歳)

引用元:『二十一世紀前夜祭』2000年8月30日光文社刊、35頁

 大津は、『「今年九十六歳」の「長兄」に「今年四つの娘」があるなら、その娘は「長兄」が九十二歳のときに三十七歳の「五人目の細君」に生ませたのだなぁ。』と考えて、たいそう感動した。

 それから十余年が過ぎて、昨今の大津は、あの高年労務者とほぼ同年配になった。「老い」の弱気を自覚することが、おりおり大津にある。そんなとき大津は、葛飾北斎の「七十五歳までの自分の仕事は、習作である。」という言葉とか蓮如が八十歳を過ぎて子供を二人も作ったこととかゲーテ晩年の生き方・仕事ぶりとか思いを馳せ、なかんずくあの「長兄」の上に想いを馳せて、みずからを鞭撻する。

 ……『人は、しかくクリエーティヴ・パワーを持続して長生きをしなければならない(あるいは、人は、長生きをするなら、しかくクリエーティヴ・パワーを持続しなければならない)』。……

💡 「クリエーティヴ・パワー」を含むこの文言が、単に主人公・大津の創作力を言及・鞭撻しているのではなく、旺盛な生殖力によって連想・喚起させられ、また生殖力をも言及・鞭撻する(し得る)ものであることに留意。

 

(2)作中引用:長編小説『三位一体の神話』(上)より

初出:単行本1992年6月光文社刊(執筆時76歳)

引用元:『三位一体の神話』(上)光文社文庫刊、2003年7月20日刊、311-312頁)

(下線部は(1)「墓を発く」と異なる部分)

 大津は、『「今年九十六歳」のに「今年四つの娘」があるなら、その娘はその男が九十二歳のときに三十七歳の「五人目の妻」に生ませたのだなぁ。』と考えて、たいそう感動した。

 それから十年が過ぎて、昨今の大津は、五十代の半ばさしかかった。「老い」の弱気を自覚することが、たまさか大津になくもない。そんなとき大津は、北斎の「七十五歳までの自分の仕事は、習作である。」という言葉とか蓮如が八十歳を過ぎて子供を二人も作ったこととかゲーテ晩年の生き方・仕事ぶりとか思いを馳せ、なかんずくあの「今年九十六歳」の男に想いを馳せて、みずからを鞭撻する。

 ……『人は、しかくクリエーティヴ・パワーを持続して長生きをしなければならない(あるいは、人は、長生きをするなら、しかくクリエーティヴ・パワーを持続しなければならない)』。……

〔短編小説『展墓』、一九七四年〕

💡 現実の小説「墓を発く」(1)を素材とした、作中登場人物の作家・尾瀬路迂を書き手とする架空の小説の引用である。尾瀬の(早期の)自殺が自殺でないと推理させる根拠となる文章の一つとして挙げられている。作中の出来事(1975年の殺人、1982年の発覚)に合わせてか、初出年は現実の1986年ではなく1974年とされている。

 

(3)作中引用:短編小説「胃がん」より

初出:『群像』1993年12月号(執筆時77歳)

引用元:『五里霧』1994年10月25日講談社刊、①118-119頁、②127頁、③129-130頁

①(A)土岐は、彼自身の健康とは無関係にも、がん関係の書物を、以前からいくらか読んでいた。彼は、ベッド空き待ちを指示せられたとき、『おれの病気(このたびの「手術のための入院」の原因)は、がんであるにちがいあるまい。』と直感的に考えた。しかし、土岐は、その直感的な考えから、なんら衝撃・悲観・恐怖の類を受け取りはしなかった。

 土岐は、たとえば近年における彼のあるエッセイの中に、「人は、クリエーティヴ・パワーを持続して、長生きをしなければならない。もしくは、人は、長生きをするなら、クリエーティヴ・パワーを持続しなければならない。」と書いた。それは、ある意味においては、ずいぶん傲慢な・思い上がった考え方・言い方でもあろう。だが、そういう考え方・言い方と土岐の既往生態との間には、抜き差しならぬ窮極的な由来関係が、存在するのであった。

 土岐の少・青年時代は、十五年戦争時代と、おおよそ並行していた。若い(少年後期および青年前期の)土岐は、一方では『おれは、三十過ぎまで生きることは、きっとなかろう(まちがいなく戦争で死ぬだろう)。』と考え、他方では『もしもおれがあるときみずから信じたように、卓抜・有意義・潜勢的なクリエーティヴ・パワーを持っていて、その潜勢力が三十過ぎおよびそれ以後にも持続して開花するのならば、おれは、どんな兵戦の只中に投げ込まれようとも、必ず死なずに三十歳以後の時間へ歩み進むだろう。』と考えた。

💡 作中時間は1982年6月である。主人公・土岐は胃癌の手術を前に、十五年戦争時代の考え方(思想)を振り返りながら、自らが死を恐れていないことを認める。この文章が(0)朝日新聞記事における引用と一致する。

💡 十五年戦争時代の考え方についての記述(上記①(A)下線部)は『神聖喜劇』冒頭の主人公・東堂の述懐(下記下線部①)が核になっている。さらに、当該述懐に続く「戦後の死ななかった私」の回想(下記下線部②)は、「胃がん」中でも言及されている(下記①(B)下線部)。以下『神聖喜劇』を引用する(引用元は光文社文庫版『神聖喜劇』第1巻、35頁)。

 一つの奇怪な想念が別に私にあったのを、私は自白しよう。それはまた前記の二断面と撞著するに似る思想であった。①もし私が、ある時間にみずから信じたごとく、人生において何事か卓越して意義のある仕事を為すべき人間であるならば、いかに戦火の洗礼を浴びようとも必ず死なないであろう。もし私が、そのような人間でないならば、戦野にいのちを落とすことは大いにあり得るだろう。そして後者のような私の「生」を継続することは私自身にとって全然無意味なのであるから。いずれにせよ戦場を、「死を恐れる必要は私にない。——②「生」にたいするこの言わば「傲慢な思い上がり」は、戦後の死ななかった私に、人生の手きびしい返報を齎しつつあるかにもみえる。あるいは、死ななかったことそれ自体が、そういう私にたいする「生」の皮肉な報復であったかもしれない。

なお、上記下線部②については、『三位一体の神話』(下)173-174頁にも引用があるが、ここでは省略する。

💡 以上の点、すなわち「胃がん」において主人公が十五年戦争時代(≒『神聖喜劇』の作中時間)の主人公における死生観(「自らが卓越していれば死なない」という考え方)と、それが戦後「傲慢な思い上がり」とも考えられたことという回想している点を踏まえて、「胃がん」の引用を続ける。

①(B) 後者のような考え方(思想)は、土岐が生活の日常(普段)において「死ヲ視ルコト帰スルガ如シ。」とか「死ヲ視ルコト生ノ若シ。」とかいうような境地に住し得た、ということではなく、依然として<死>を恐怖したものの、生活の極限状況(土壇場)においては“それだから、<死>を恐れる必要(理由)は彼にない”と覚悟した、ということであった。

 そして土岐は、事実として、戦後(三十過ぎ)まで生き延びた。それは、単なる「偶然」、ただの「幸運」ないし「僥倖」でしかなかったのかもしれない。彼は、「碌碌と消光して馬齢をかさねた」ようなものとして彼自身を省み、十五年戦争中の、なかんずく太平洋戦争中の、「潜勢的なクリエーティヴ・パワー」云云の「思想」を振り返って、『<生>にたいするあのような「傲慢な思い上がり」は、<生>の手痛い報復を戦後の生きているおれに加えつつあるかのようだ。あるいは、戦後に生きていることそれ自体が、戦時のあんなおれにたいする<生>のアイロニカルな仕返しだろうか。』というように批判的に考える時間もたびたびあった。

 しかも、それでいて、土岐は、五十代・六十代にも、「人は、クリエーティヴ・パワーを持続して、長生きをしなければならない。もしくは、人は、長生きをするなら、クリエーティヴ・パワーを持続しなければならない。」と書いて発表する(すなわち信ずる)のであった。むろん土岐は、職業言論公表者として、その責任において、みずから信ずる事柄でなければ、それを書いて発表することは、しないのである。

 

② 個室の闇中で、土岐は、ようやく眠りに入ろうとしていた。がんの問題はなくても(それが胃潰瘍治療のためであっても)、開腹手術は、一つの大事である。それにしても、土岐は、現在の彼自身を「生活の極限状況(土壇場)」に臨んでいると考えるのではなかった。しかし、土岐が明日の手術などに恐怖ないし不安を抱かないのは、究極的には、「おれにはなおクリエーティヴ・パワーがあるのなら、おれは、必ず死なぬはずだ。」という「思想」に彼が依拠しているからであった。

 

③ その後、十一年が経過した。十一年間、土岐の体調は、おしなべて良好であった。「五年生存率」ということが、よく言われる。それからして、土岐は、転移とか再発とかに関して、甚だ好結果であるにちがいない。それに、早期胃がんは、今日では、通時的ないし社会通念的にも、おおかた「不治の病気』すなわち死病・大難病ではなくなっているようである。

 しかし、土岐には、二つの解けぬ謎がある。彼が今日まで生き長らえているのは、「クリエーティヴ・パワーを持続している」ことを証拠立てるであろうか、というのが、謎の一つであり、十一年前の手術中に彼が彼自身の「濃厚」な閨房生活の委細をしゃべったろうかしゃべらなかったろうか、というのが、謎の他の一つである。

💡 なお、作中登場人物(主人公)の土岐ではなく、大西巨人が「あるエッセイの中に(上記引用①(A)」、また「五十代・六十代」にも(上記引用①(B)、「クリエーティヴ・パワー」の当該文言を書いたという事実はあるのだろうか。筆者には確認できていない。初出の(1)「墓を発く」は小説であり、また発表時点で大西巨人は既に70歳(あるいは60代後半)である。

 

(4)作中引用:長編小説『迷宮』より

初出:単行本1995年5月光文社刊(執筆時79歳)

引用元:『迷宮』光文社文庫、2000年2月20日刊、①77頁、②288-289頁

① 天志は、だまって聞きつづけた。言うまでもなく、文成は、だまっていた。

「ここでいま私が、私の『人格者』云々』との関連において、なかんずく関心を持つのは、アンドレーエフの『人間にとっては、愛と注意か、あるいは——その人間にたいする恐怖が必要なのだ。……ナポレオンが愛されたように、恐怖をもって愛される人は、誰よりも恐怖なんだ。』という言葉です。とにかく、……以前に、私は、『人は、クリエーティヴ・パワーを持続して、長生きをしなければならない。もしくは、人は、長生きをするなら、クリエーティヴ・パワーを持続しなければならない。』と書いた。この命題にも本来それ相応の付注が必要にちがいなかろうが、いまここでは、私は、それを省略する。『人格者』云々も、とどのつまり、その命題と同様の思想なんだ。

💡 本作中の引用の文脈は「『人格者』云々」への言及である。以下、71-72頁から引用する。

「この話には、だいぶん注を加えないと、大方の人たちは、誤解しかねない。しかし、君〔大三〕には真意が通ずる、と私は思うから、注や断りはいっさいなしにする。相撲取りでも、たいそう強い相撲取り、たとえば最盛期の横綱は、——これは、別に『横綱』でなくて、ただ『強い相撲取り』でいいのだが、話をわかりやすくするため、私は、『横綱』を例にしたのだ。いや、これも、『注』の類か、——仲間の相撲取りたちからはもちろん、観客たちや報道関係者たちなどから、一面では憎まれたり恐れられたりしている、と私は考える。テレヴィまたはラジオのアナウンサーたち、仲間の力士たち、その他から『土俵態度がいい。』とか『稽古に熱心だ。』とか『若い者の面倒見がよい。』とか主に言われるようになり『人格者』扱いされだしたり、観衆から妙に同情的な大声援を受けだしたり、するようになったら、もう彼は、衰退の一途を辿っている。ほかのどの分野でも、事の本質は、おなじだ。わかるね?」

「はい。」

「とりわけ文芸の世界では、実相は、そういうことだ。たとえば小説家が、『人格者』とか『円熟した人柄』とか言われるようになり『私・心境小説』ないし『身辺雑記小説』を『奥床しく』執筆しだしたり、『東洋的』な・あるいは『日本的』な静謐の境地に沈潜しだしたり、するようになったら、その人間の制作活動は、もうお仕舞です。”とりわけ文芸の世界では、実相は、そういうことであるべきだ。(引用者注:「であるべき」に圏点)”と私は、言い換えてもいい。むろんここでも、私は、私の言葉に、自己実行の問題として、責任を持たねばならぬ。……ちょっと待ちたまえ。」

最後に、末尾近くから。

②「〈知行鍛錬運動〉の一九八八年夏期研修会で「『幽霊』について・その他」の話をしたとき、皆木さんは、「アルツハイマー病・老年性痴呆」に正対して、その「最も中心的な恐怖(最大の恐怖)」を切々と語った。当時のかなり以前から、すでに皆木さんは、その種の病気(異常状態)においては「『病識』がないということ」にたいする恐怖、言い換えれば「クリエーティヴ・パワーの喪失」にたいする恐怖を具体的・現実的に感じ(始め)ていた、と僕は考える。「人は、クリエーティヴ・パワーを持続して、長生きをしなければならない。もしくは、人は、長生きをするなら、クリエーティヴ・パワーを持続しなければならない。」という信念の堅持者にとって、「高年齢性の痴呆一般」が彼の「生」における「最も中心的な恐怖(最大の恐怖)」なのは、大いにあり得るべき事態です。

💡 ここでは、「クリエーティヴ・パワーの喪失」が「高年齢性の痴呆一般において病識がないということに対する恐怖」を意味していることに留意する。

 

(5)作中引用:エッセイ「凡夫の慨嘆」より

初出・引用元:『現代思想冒険者たち 第06巻 ルカーチ:物象化』「月報」24号、「心に残る思想の言葉 24」、2-5頁、1998年5月10日講談社刊、(執筆時82歳)

 著者は、冒頭に「人は、まるまる創作者になりきるためには、死んでいなければならない(トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』)を掲出し、当該掲出文を「文筆業開始以後の約五十年来」「念頭に置いてきた」が、しかし、昨今の著者は「その以前の私が掲出文の意義を十全には理解していなかった」と省みる。そのうえで、(1)「墓を発く」を引用しつつ、「クリエーティヴ・パワー」の当該文言について次のように述べる。

(下線部は(1)「墓を発く」と異なる部分)

 叙上の実情を理論的ないし理路整然的に説明することが、遺憾ながら、さしあたり私にできない。それでも、たよりない感覚的説明を、私は、しばらく強いて試みる。

 ——十一年前[一九八六年]、私は、文筆家大津太郎を主人公とする一短篇小説[『墓を発く』]の末尾に、「それから十余年が過ぎて、昨今の大津は、あの高年労務者とほぼ同年配[六十代半ば]になった。『老い』の弱気を自覚することが、おりおり大津にある。そんなとき大津は、葛飾北斎の『七十五歳までの自分の仕事は、まだ習作である。」という言葉とか蓮如が八十歳を過ぎて子供を二人も作ったこととかゲーテ晩年の生き方・仕事ぶりとか思いを馳せ、なかんずくあの『長兄[当時九十六歳にして四歳の女児の父親、彼の五人目の妻は当時四十一歳]』の上に想いを馳せて、みずからを鞭撻する。/……『人は、しかくクリエーティヴ・パワーを持続して長生きをしなければならない(あるいは、人は、長生きをするなら、しかくクリエーティヴ・パワーを持続しなければならない)』。……」と書いた。……

 ……ひたすら主人公文筆家大津に即し、もっぱらその自戒ないし自律の心内語として、私は、「人は、クリエーティヴ・パワー」云々を書いたのであった。しかし、その言葉は、——「人は」という主格使用のせいもあって、——人間一般の生き方に関する(作品ないし作者の)主張と江湖に受け取られかねない(ある程度まで実際に受け取られた)。それは、そういう嫌い・そんな難点を多かれ少なかれ内含するようである。すなわち、私の確信によれば、文筆家・言論表現公表者は、そのような命題[「人は、クリエーティヴ・パワー」云々]を「人間一般の生き方(the way that human life in general should be)」として披露してはならぬのである。……

 ……もしも私が掲出文の意義を十全に理解していたなら、私の言語表現(作品)は、もっと別の様式を踏まえたはずではなかろうか(それにたいする大方のそのような誤読は、万が一にもなかったはずではあるまいか)、——そんな反省の思考が、昨今の私(『トニオ・クレーゲル』制作時のマンより約三倍も年歯をかさねた私)を捕らえている。それだから、そういう場合にも、そのたびに私が、『やはりおれは、凡夫だなあ。』と慨嘆せざるを得ない。……

なお、上記エッセイについては、山口直孝(2003)「単純な理念を持続すること:大西巨人素描」『『昭和文学研究』46、pp.42-55に下記のような言及あり。

(引用者注:『迷宮』の)旅人の行為が告げているのは、「クリエーティヴ・パワー」を発揮できず、分別すら失われた場合、もはや人は人たりえず、そのような存在を自ら消滅させることは是である、という意志である。個であるということは、自己の引き受ける範囲を選択でき、それについて責任を持つことのできる人格を備えていることが要件となる。その前提が崩れた場合、個はもはや同じ存在であることができない。そのような時に、人が同一性を保っために死を選ぶことは、やはりヒューマニズムの実践と見なせよう(当然のことながら、こうした行為は、あくまで自発的になされなければならず、何人にも強要されるべきことではない。大西自身、「クリエーティヴ・パワー」をめぐる発言が、必ずしも一般命題として提出されたものではないことを「〈心に残る思想のことば 24〉凡夫の慨嘆(52)」で表明している)。とはいえ、当為として導き出された変型の自殺が、旅人・路江の二人によって何ら感傷的な色彩を帯びることなく実行されているのは、一つの驚異として、印象づけられる。

💡 以上にみたように、「クリエーティヴ・パワー」の当該文言が掲出・引用・言及された文脈ないし意図はそれぞれ異なっている。すなわち、以下のようである。

(1)「墓を発く」では、主人公の「「老い」の弱気」に対する鞭撻として

(2)『三位一体の神話』では、登場人物の自殺が自殺でないことを推理させる根拠として

(3)「胃がん」では、手術に臨んで死を恐れない主人公が信じる事柄として

(4)『迷宮』では、制作活動の衰退および病識のない高年齢性の痴呆に対する登場人物の恐怖のとして

(5)「凡夫の慨嘆」では、文筆家・言論表現公表者が信じる命題の表現様式の反省として

 そして、こうした多様な掲出・引用・言及のし方がなされる当該文言の根底にあるのは、(3)にあるように、言論公表者の「既往生態との間」にある「抜き差しならぬ窮極的な由来関係」をもつ、「職業言論公表者として、その責任において、みずから信ずる事柄」であって、それは、(4)にあるように、言論公表者が「自己実行の問題として、責任を持たねばならぬ」ものであるということである。

大岡昇平『ながい旅』:「真生塾」に関して

 梯久美子『昭和の遺書:55人の魂の記録』(文春新書)を読み、大岡昇平が岡田資元陸軍中将の戦犯裁判を描いた『ながい旅』を読みたく思ったのだが、ちょうど引っ越し後の荷解きで積読本の箱から角川文庫版(2007年刊、底本は1982年新潮社刊の単行本)が出てきたので読むことにした。

 冒頭から「大岡昇平ってこんなに不明瞭な(整理されていない)文章を書くんだったか、という違和感を持ちながら読んでいた。例えば、以下のような文である(36頁)。

 軍によって扱いが違ったのは勿論である。東部軍(東京)では、軍律会議を開かず、六十二名を渋谷の陸軍刑務所に収容してあった(中央では早くも手をあげるのか、との声があったという)。

 五月二十五~六日にわたる東京空襲の際、刑務所を何かの軍事施設と間違えたのか、三度繰り返して爆撃し、全員爆死した。ただし同じ刑務所に、吉田茂ほか二名が、休戦工作の疑いで収監されていたが、彼等をすぐいまの代々木公園、当時代々木練兵場へ避難させたが、米搭乗員は後廻しになったので、所長以下五名が死刑を宣せられている(『史実記録、戦争裁判横浜法廷(一)B・C級』東潮社、昭和四十二年)。

 二段落目第一文の「爆死した」の主語が前文の「六十二名」もしくは後文の「米搭乗員」であることはわかるにしても、「爆撃し」と主語が違うので、省略されると戸惑う。また、二文目は「ただし」のカカリ先が不明瞭で、「~が」も連続していて、単純に悪文だろう。

 さて、岡田元中将は東海軍管区(兼第十三方面軍司令官)として空襲後捕虜となった米軍兵士(阪神地域の空襲後に撃墜された後、東海地方に降下して捕まった兵士も含む)の処刑に関わったとして起訴される。裁判では弁護側が空襲が戦略施設以外をも対象とした無差別爆撃であったことを立証しようとするのだが、弁護側証人に、東海以外で空襲に遭った人々として神戸の孤児院の院長が出てくる。

 地元ということでふと気になり、ネットで調べてみたところ、今も神戸の中山手通(山の手小学校のあるあたり)で、社会福祉法人として後継の児童養護施設や保育園が存続していることを知った。「古書片岡』に行くついでに歩いたことがあり、宇治川につながる狭い水路にも覚えがあったが、証言中の孤児院や母子寮の被災は、初めて知った事柄だった。また、大倉山に高射砲陣地があったことも知らなかった。

 しかし同時に、当該孤児院の名前や位置に関する大岡の記述は不正確・不十分であることもわかった。以下の点は、その他の事実誤認の訂正が入った新潮文庫版(1986年刊、電子書籍で確認)でも改められていないので、ここで書き留めておく。

 

1.名前について

 「新生塾」ではなく「真生塾」が正しい。

  社会福祉法人神戸真生塾 沿革 

 以下、本文の引用(角川文庫版、126頁)

 二十番目の証人、水谷愛子、五十歳は神戸市生田区中山手通七丁目、財団法人新生塾孤児院の院長で、三児の母であった。 

 問「新生塾孤児院とは何ですか」 

 答「私の父が、明治二十三年に建て、最初は『神戸孤児院』と呼ばれていましたが、昭和十六年、今の名称に改めたのです。捨児、浮浪児、それから家庭の事情で孤児になった者を預かっていたので、生れたばかりの赤ん坊から、十四、五歳の児童までいました」

 映画版(『明日への遺言』)では田中裕子がこの院長を演じているようだが、キャスト紹介などでは訂正されているのだろうか(観なきゃ)。

 

2.位置について

 上記の「中山手通七丁目」という真生塾の住所じたいは正しい。しかし、以下のように、大岡はなぜか真生塾の存在を見落としている。真生塾は空襲で全焼後、1947年には再建され、執筆当時も同じ場所に存在していたはずである。

 以下、本文の引用(同、128-129頁)

 新生塾所在の生田区中山手通は、今日では風見鶏で有名な外人住宅のある上山手通より一筋下の、神戸市後背山地を横に這う通りだが、七丁目はその最も西で地域も広くなり、住宅地区でもあり、施設地区ともいえる。女子中高、親和学園はいまでもあり、神戸中央病院もある。ただ新生塾に当るものは現在の地図には見当らない。

 次の点も、この箇所の記述を疑わしくする。

 「上山手通」は存在せず(以下のブログによれば明治時代にはあったらしいが)、「風見鶏の館」があるのは北野町である。大岡は帝国酸素勤務時代に神戸(今の王子公園の辺り)に住んでいたこともあるから、慣用で見聞きしていたのかもしれないが‥。

 とも姐の神戸散歩:(1) 下山手通、中山手通はあるのに上山手通がない!?

 また、六甲に移転する前の親和学園があったのは「中山手通」ではなく「下山手通」である。

 学校法人親和学園 学園の沿革

 

 ちなみに神戸中央病院は正式名称を「社会保険神戸中央病院」といい、1948年に中山手通で開院されたらしい(同名の病院は北区に移転し、付近には別の病院が建っている)。

 地域医療機能推進機構神戸中央病院 病院長挨拶 

 織田哲 ・飯島庸司(1987)「社会保険神戸中央病院」『病院』46巻2号、医学書院

 今の地図では「中山手通七丁目」と 「下山手通七丁目」が隣接していて紛らわしく見えるが、1980年に区画変更があったようなので、執筆当時のことはわからない。それにしても近いことには変わりがないのに、見落とすことがあるだろうか。著者以外、誰も確認を取らなかったのだろうか。

 新潮文庫版の「文庫版あとがき」には、「昭和五十六年にこの作品を書いた頃は、体調が一番悪くて、新聞連載に堪えられるかどうか問題だったくらいだが、その後、奇妙に体調を取り戻して今日に至り、文庫改訂版を出すことができたのは、幸せであった」とある。文体の乱れ(?)や、上記を含む事実の誤認、詰め不足を、晩年の衰え、というにはいかにも寂しい。

 

ながい旅
ながい旅

戒壇堂・広目天によせて

 奈良行きの阪神電車の中でのあわただしい予習で町田甲一『大和古寺巡歴』の東大寺戒壇堂四天王立像の項を読み返していて、それらについて、個々の表情ばかりでなく、四体の像容の構成を美としてとらえるべきであることに気づいた。昨年の4月に訪れた際は、土門拳『日本の彫刻(飛鳥・奈良)』のB4版の全面にクローズアップされた広目天多聞天の顔面の、その圧倒的な印象を持ったまま戒壇堂へ行ったものの、像が案外に小さく、ことのほかそれらの体幹・四肢を矮小に感じたために、写真以上の感銘を受けることができなかった。けれども、今回は町田著によって、その配置の妙―表情においては忿怒と沈静の二像がそれぞれ前列と後列に、姿勢においては抑制と高揚の二像がそれぞれ対角にある―について、確かめ、味わいえるのではないかと思われたのだった。

 まだ人の少ない早朝の南大門そばで一服つけ、大仏殿前を左に下る道で戒壇堂に至った。一度下り、大仏殿と同じ標高の堂に正面から入るため、わりあいに長い階段を上ったのだが、堂前についての前回の記憶はなかった。前は大仏殿西側の指図堂から回ったために覚えていないのは単に通らなかったから、ということでもあろうが、春は興福寺から三月堂、二月堂、大仏殿と諸堂諸仏を巡ったあとだったので、私が何かを見ようとする目は既に消耗していたのかもしれない。であれば、時間のたった今日、初めに見た仏について感じ取りうるものは、同じものであっても少しく違うだろう、と期待された。7月に三月堂を改めて訪れた際も、暑いなか浄瑠璃寺や奈良坂付近を歩き回った後で疲れてはいたが、不空羂索観音立像に関するいくつかの評を読み、また朱印に気を取られていなかったせいもあって、落ち着いてその特徴を楽しむことができたことを思い出した。

 南面して薄暗い堂に入った時の印象は以前と変わらなかったのだが、堂内を一見し、そして寺務の方のことわりを聞いて驚いたのは、前列右(東方)の持国天が、像上の壁面が剥落しかかっているため、左側、前列の増長天と後列の広目天の間に移されていたことだった。従って、四像による構成美については、眼前の像容を確かめつつ頭の中で想像するほかなくなったのだが、それはさほど残念に思われず、姿勢に注目することで、両手を下ろした動作休止の状態にある広目天持国天が、その四肢の動きにおいて対称である―両像とも片腕を伸ばし、片脚を心持ち踏み出す(あるいは曲げているの)であるが、それぞれの位置に対して外側の手脚をそうしていることで、外心的な動きを表現している―のに対し、片腕を高く揚げた動作持続の状態にある増長天多聞天が、その上半身においては相似、下半身においては対称の形式にある―揚げているのは両像とも右腕で、かつ、脚は他の二像と同様に外側の一脚を曲げている―ことで、四像が完全に放射的な動きを表しているのではない、言い換えれば増長・多聞の二点の右腕によって、全体としてやや不安定な構成を感じさせる(はずである)ことなどが、興味深く思われた。

 堂に参る人のあるたびに繰り返される寺務の説明を聞き流しつつ、四方を七、八周はしたと思う。そこで私が最も長い時間をかけて眺めたのは、北方の広目天と西方の多聞天、いずれも後列におかれた二体だった。そこで確かめえたのは、両者に共通する美しさと、特に広目天においてのみ感じ取られた印象である。前者は肉眼で像を見る前に触れた土門拳の写真、あるいはその後みた入江泰吉の写真(事後)によっても感じられるものであり、また特に広目天については、その美しさそのものやその美しさの感受にかかる経験がすぐれた感性の持ち主によって既に記されているのであるから、私自身が新たに見出した感想として、その写実的な美や静かで力強い意志の表現について付け加えることはないかもしれない。

 曰く、「その中でも、この廣目天は、何事か眉をひそめて、細目に見つめた眼ざしの深さに、不思議な力があつて、私はいつもうす暗いあの戒壇の上に立つて、此の目と睨み合ひながら、ひとりつくづくと身に沁み渡るものを覺える。(會津八一)」「たとえばあの西北隅に立っている広目天の眉をひそめた顔のごとき、きわめて微細な点まで注意の届いた写実で、しかも白熱した意力の緊張を最も純粋化した形に現したものである。(和辻哲郎)」「僕は一人きりいつまでも広目天の像のまえを立ち去らずに、そのまゆねをよせて何物かを凝視している貌を見上げていた。なにしろ、いい貌だ、温かでいて烈しい。……(堀辰雄)」「...むしろ内なる激情を圧えるような深刻な表情を示す多聞天広目天の感情表出の方に一層注意がひかれよう。...相貌、とくに人間的感情の表出のごときは、明らかに作者の積極的な芸術的意図による表現であって、そこに新しい意味を、われわれは見てとらねばならないわけである。(町田甲一)」「全体として感じるのは、一種沈痛の表情である。...何かに耐えている内面的な意志の強さをあらわす。(直木孝次郎)」などである。

 しかし、その場で私が両像に見出した内的姿勢を言い表すならば、これら遠くに視線を投じる二体は、知性によって邪なるものを捉え、破ろうとしている。忿怒の像と違い、外的な邪悪を威嚇し近寄せまいとするのではなく、眼に届く限りの不正―それは本来、仏法あるいは仏国を破壊するものであろうが―をなるたけ早く察知し、疑い、糺そうとする意志を示している。像はそれほど大きくはないが、その視線の結ばれる点は、明らかに堂外の遠方にあるか、無限遠の状態にある。また、疑いといっても、仏に仕える天である以上、それは自我に執着するがゆえの人間的感情としての疑念ではなく、眼にしたもの―あるいは知覚されたもの―について「それが何であるか」を吟味し、見通そうとする、理性の働きによるものである。そして、その沈静は、見ること以外の対象への働きかけを放棄しているのではなく、見たものを邪なるものと判断するや否や、それ以上に浸透させず、滅しようとする動きを予感させる。これらの感想は、像の傍においても、視線の正面においても感じ取られ、かつ二像からほぼ同程度に感じられたことであった。

 以上の印象が、特に広目天の側においてより強く得られたとすれば、それは二像の顔貌の部分的特徴によるのかもしれない。第一に、広目天は眉根を寄せ、強く緊張している(それによってか、持国・増長天と同様に、人体にはあり得ないはずの隆起が眉間に生じている)。対して多聞天は、眉のひそめ方はそれほどでもない一方で、強く結ばれて下がった口の端と、それによって生じた小鼻からの皺によって、口元の持続的緊張が明らかである。いずれに注目し、いずれに透徹した知性あるいは破邪の意志を看とるかは、個人によって差もあるはずだが、會津八一「びるばくしゃ」歌をはじめ上に引いたような外的なことばによっても、「それが何であるか」という内的なことば―それは写真または実物に触れてのち、今日より前のいずれかの時点で私が得たものであるが―によっても、広目天像の凝視のほうにずっと心が傾いたと言える。しかし実のところそれは、両者に共通する印象を強調するものであっても、広目天独特の印象を与える、という性質のものではなかった。

 というのも、第二に、広目天には、多聞天にない表情の展開が感じられたのである。それは多聞天にある口元の緊張がない―緩んでいるというわけでは勿論ないにしても、その両唇の曲線がゆるやかであり、角度によっては水平にも見える―ということに関係しているだろう。といっても、堂内の観察者私が、そのような消極的な分析をその場でし得たわけではない。そうではなく、もっと直接的に、私には、左斜め前から眺めた広目天の口角が、少し上がって―つまり笑みをたたえて―いるように感じられたのである。凝視と微笑を両立させた表情、それが何であるか。すぐに思われたのは、騙せるものなら騙してみろ、というような不敵ないし挑戦の笑みである。しかしそれらは、疑念と同じく、傲慢を離れよと説く仏の守護者にはふさわしくない。なおのこと、我やお前がどうであろうと知ったことか、というような自他の破滅を楽しむような虚無の笑みでもない。つまり、捉え得た不正に対して、それを駆逐することに快さを覚えて三毒に呑まれるのでもなければ、それと格闘することを放棄して断滅の誘惑に身をまかせているのでもないということである。

 とすれば、それは一種の余裕、あるいは判断にかかる溜めの深さを表す相好ではないか。巧妙な嘘や聖を装った俗は、時に遠方への視線をすり抜けて、自らの近傍において初めて邪なることを発露するかもしれない。しかし悪がそのようなものであることを充分に承知しているならば、その巧妙さや看破の難しさにたじろぐことはない。あるいは、ある人間の行がいかに愚かで醜いものと感じられても、まず、それがそういうものである、という判断は別にあって、やはり意志をゆらがせるものではない。眼差しの強さとともにある微笑みから、私が堂内で想像し、帰路(といってもその日は戒壇堂が出発地点であり、日が暮れるまで諸堂を歩き回ったのであるが)に言葉にしえたのは、そうしたことどもである。

 あるいは、この小文を書きながら気づいたことを付会するならば、巻子と筆を持つ広目天は、「それが何であるか」を理解するのみならず、それを余さず記録しようという構えにおいて、破邪に備える力の蓄積を具体的に解釈することができる。あるいは、口元のわずかな緩みに、沈黙ではなく発声を感じとるならば、破邪そのものが言葉―しかも重く静かな―によって行なわれようとしていると見ることもできるだろう。

 むろん、それらは、未熟な観察者私が、たまたま冬の朝八時半の東大寺戒壇堂において、きわめて個人的かつ局時・局地的に思い描いたことである。ことに、薄暗い堂内であっても陽の光は射していたのだから、それが季節や時間によって諸像に与える変化は一様ではない。あるいは、かつては各像が今とは異なって中心を向いており、しかも壇上に上がることができたというから、間近から顔貌を観た先賢が記したことがやはり本質なのかもしれない。いずれにせよ、広目天の微笑みについては、他の観察者をともなうか、別の日時に訪れるかして―四体の本来の配置の特徴とともに―また確かめるほかはない。

 しかし仮に、二度と戒壇堂を訪れることがなく、あるいは二度と広目天は笑っては見えなかったとしても、遠くに放たれた「まゆね よせたる まなざし」は、いずれの場所と時間においても、まなこに見続けることができると私は思う。それは写真や歌による先人のすぐれた芸術的表現によっても思い出されるのだが、むしろ私個人においては、広目天に強く結びつけられた「それが何であるか」という言葉と、その源にある強靭な究明の構えを想起するたび、可能であるように思われる。

旧制神戸一中の校歌の歌詞

何の(誰の)役に立つとも知れませんが、個人的に気になっていた旧制神戸一中の校歌、web上で探しても確実なものが見つからないので、「SONGS TO REMEMBER」に従って文字に起こしておきます。「自重自治」「質素剛健」「鵬雛」といった言葉が織り込まれていたりして、ふと創立記念日に歌った記憶がよみがえる曲です。個人的には四番の歌詞が好きです。

 

<一校歌>(作詞:鎌田春雄)

一.
群巒色は紫に 金波さ揺らぐ茅渟の浦
東大野を瞳々と 朝日子昇る曙や
希望の光輝ける わが世の春に似たるかな

二.
天の霊火を地に呼ぶと 意気の子胸の高鳴りや
自重と自治の旗しるく 𠮟咤呼号の五十年
ああ微笑みの誇らひの 歴史の跡ぞ勇ましき

三.
一たび搏たば九万里 世は神霊の気に充ちて
汚濁の風は収らむ 右文尚武たゆみなき
鵬雛ここに千百が 見よ羽ばたきの雄々しさを
四.
学海浪は荒くとも 人生崎嶇は多くとも
質素剛健ひとすぢに 至誠の道にいそしまば
行手不断の花薫り 久遠に絶えぬ名は有らむ

五.
東亜開けて四千歳 人文日々に新しく
理想の影は清くして 雄図やわれに待つ如し
ああ覚醒の声高く 起て神の健男児 

 

一.
ぐんらん いろは むらさきに きんぱ さゆらぐ ちぬのうら

ひがしおおのを どうどうと あさひこ のぼる あけぼのや

きぼうの ひかり かがやける わがよの はるににたるかな

二.

てんの れいかを ちに よぶと いきのこ むねの たかなりや

じちょうと じちの はた しるく しったこごうの ごじゅうねん

ああ ほほえみの ほこらひの れきしの あとぞ いさましき

三.

ひとたび うたば きゅうまんり よは しんれいの きに みちて

おじょくの かぜは おさまらむ ゆうぶんしょうぶ たゆみなき

ほうすう ここに せんびゃくが みよ はばたきの おおしさを

四.

がっかい なみは あらくとも じんせいきくは おおくとも

しっそごうけん ひとすじに しせいの みちに いそしまば

ゆくて ふだんの はな かおり くおんに たえぬ なはあらむ

五.

とうあ ひらけて しせんさい じんぶん ひびに あたらしく

りそうの かげは きよくして ゆうとや われに まつごとし

ああ かくせいの こえ たかく たて じんちゅうの けんだんじ

薬師寺にて(2018.6.7)

 薬師寺で嫌なものを見た。

 一年前に見逃した東院堂の聖観音像を拝んだあと、薬師如来坐像をゆっくり眺めようと金堂に入ったところ、一見して東アジア出身と思われる十名ほどの一団が、本尊を眺めていた。何人かは僧と思われる格好で、若い人はカジュアルな服装だったが、いずれも静かに仏像の方を見ていた。午前中の強い雨は既にやみ、東院堂では観音の反射するてらてらとした光が気を散じさせた。しかし、日光に直射されない丈六坐像の肌が放つ光は「ちょうどよい明るさ」と感じられた。

 私は、彼らの背後に立つと邪魔だろうと思い、また珍しく気が急いてもいなかったので、こっそり『古寺巡礼』の薬師寺の箇所を確認しておこうと、右手の柱の陰にある床几に腰を下ろした。私と同じように腰かけている人がほかに数名いた。

 すると、僧らしき男性の低い声を中心に、経文の唱和が始まった。節のある短い四句の繰り返しで、一句目はわからなかったのだが、あとの"namo buddhaya, namo dharmaya, namo sanghaya(帰依仏、帰依法、帰依僧)"はすぐに聞き取れた。私の位置からは彼らの姿は見えず、自然、三尊の横顔を眺めながら、男女の声の物悲しい抑揚を聞くのは偶然にも非常な風情があった。

 次に「開経偈」や「懺悔文」のような短い経文と、おそらく「般若心経」が中国語で読まれた。短い経文は僧職の男性に他が先導されてゆっくりと、「般若心経」はかなりの早口で、途切れがちの声もあったが、それでも全体として張りのある読経を、彼らの出身や薬師寺を訪れた理由などを想像しながら興味深く聞いていた。右の脇侍である月光菩薩の胸元が、汗をかいたように濡れていることにも、その時気がついた。

 読経が薬師如来真言(これはリズムでそうとわかった)に切り替わったあたりで、彼らの祈る姿を見てみようと思い、柱の陰から出た。とほぼ同時に、日本人の声で「長い間、前を占拠しないでください。やめてください。迷惑なんです」という意味の言葉が聞かれた。何だ、と思って見ると、堂内の売店の寺務員が一団の近くに立って彼らを眺めていた。

 私はとっさに、もうここを出よう、と思った。一団は日本語の注意が聞こえなかったのか、理解できなかったのか、真言を繰り返している。私は、素人でも思い当るような、一つの教えの共通言語による祈りを、寺の者が彼らの介しない言葉で遮ろうとしたということに、ほとんど瞬時に、絶望的な気持ちになった。寺務員はさらに彼らの視界に入る位置に歩み寄り、静かな薬師如来とその信徒の前で、大きな咳ばらいをした。私は彼らの背後を通り過ぎながら、暫時でも「胸の前に開いた右手の指の、とろっとした柔らかな光」を確認しようとしたが、もう心は強張ってしまっていた。

 今までにも高圧的な寺務員には何回か嫌な思いをしたことがあった。例えば、東寺で金堂を順路と逆に見て周ろうとして咎められたり、相国寺で確かに手渡したはずの拝観料を直後に再び求められたりするのは、決していい気持ちではなかった。だがそれはいずれも観光客で混雑した寺院でのことであり、彼らが人の流れを捌くことに倦んでしまっているのは俗な観光客の一人たる私のせいでもあるのだと思うと、深くは幻滅しなかった。

 しかし、すばらしい仏像のある堂内で読経している信徒を邪魔者扱いする関係者など、見たことがなかった。例えば三十三間堂のような狭い内陣で、外国の仏教徒五体投地しているのを、ほかの観光客が奇異の目で見ることはあっても、である。それを、薬師寺の広い金堂、しかも一団以外には五名といないところで、ものの五分のお勤めをするのを迷惑とは。そうであるなら「堂内の撮影禁止」と同じように「仏前での五分以上の読経禁止」とでも掲示を増やせばよい。

 何より、もし彼らが、かつて仏教を日本にもたらしながら法灯のすでに絶えた国の仏教徒であるとすれば、日本の古寺で勤行をしていることは喜ばしいことではないのか。入山して正式な僧の資格を得る時間もお金もないために、観光がてら簡単な授戒や灌頂ですませる、ということが仮にあったとしても(これが私の考えうる最も意地の悪い見方だが)彼らが日本で技術や財産より得がたいものを学んで持ち帰ろうとすることを、まずは尊ぶべきではないのか。

 この寺を通過する多くの人間の中に、誰かの祈りをやめさせてでも、間近で仏を見せるべき者がどれほどいるだろうか。少なくとも私はそうではない。確かに私には、金堂を去るときも去ってのちも、「とろけるような美しさ」を確かめ得なかったことが惜しく思われた。どのような寺院でも、できることなら一堂を独占して好ましい像を心ゆくまで眺めていたいと思うし、そのせいで気が急くこともある。

 しかしそれは形あるもの、華美なるものへの執着であり、仏陀が離れよと説いたはずのものである。そうであれば、寺務員の目に、私は、彼らを排除してまで仏像を眺めることを望むような、さもしげな人間として映ったのかもしれない。
 仏像も塔もそもそも虚しいが、それら自身がそれらを厭わせることはない。器に執着する者が、汚れるからといって、そこに盛るべき信心の実を捨て、器をいっそう虚ろに、卑しいものにしているのだ。

(2018.6.7)

付記: かつて徹底的に大衆にくみすることで堂宇を再建したこの寺において、また自らがその恩恵を受けて気軽に拝観ができることを忘れて「日本仏教の堕落ないし排他性」といったことを云々するつもりはない。前管主の辞任とこの出来事とを引きつけるのは、言うも愚かである。しかし、この出来事直後から今まで、粘着質で抜きがたい憤りからこの小文を書いたこと、そしてそれが、言うことが快いばかりで無内容な怒りに身を任せるより、ずっとたちの悪い「瞋」にとらわれていることは自覚している。

一人では行かなかった場所について(2018.6.18)

 湖東三山を巡って永源寺に向かう道中、同行の黒木さんがつい最近一人で参られたばかり、と聞いて、少し申し訳なく思っていた。永源寺の後は特に予定がなかったので、太郎坊宮にでも行きましょうか、という話もしていた。太郎坊宮には数年前に行ったことがあったのだが、面白い土地だったので再訪するのもまた楽しかろうと思われた。と、拝観後、以前に行かなかった永源寺ダムのあたりに行ってみようか、と言ってくださったので、ありがたくそちらに車を向けた。

 ダムの手前に奥永源寺の道の駅があったので、お昼寝をする黒木さんを残し、一服することにした。そこで周辺のマップを見ていると、そこから北上して百済寺の裏に出るルート上に「木地師資料館」や「惟喬親王陵」といった気になる場所を見つけた。次は私の提案でそちらに向かうことにした。

 道の駅はもと中学校だったのを廃校後に改装したということで、国道421号線を北に折れ県道に入ると、道は細く険しく、人家も少なくなった。10分ほど行って細い川のそばにある木地師資料館に着いたものの、普段は無人で、数日前に予約しなければ見られない、ということだった。資料館と同じ敷地にある筒井神社は惟喬親王を祭神にしており、その由緒書きや碑によって、近江に隠棲した親王が在の杣人に轆轤を使った木工の技術を伝えた、という伝承が今も生きているらしいことがわかった。

 このあたりから、観光寺院と打って変わってやや不穏な道行きを二人とも面白く感じ始めた。親王陵にはそこから5分ほどで着いたはずだ。まだ明るい時間帯だったが、林を縫う細い道は暗く、対向車もなかった。心構えなしで来た不安さもあってか、もっと時間がかかったように感じる。

 道沿いの駐車場から、左手の山の斜面に、かなり大きな親王の坐像と鳥居が見えた。鳥居をくぐって斜面を少し登った左手には開けた空間と小さな社とがあった。もともとこちらに神社(親王の住まい)があったらしいことは、先程の筒井神社で見た由緒で想像できた。しかしこちらには人の訪れを予期した看板などはなく、親王像の土台にはめ込まれた金属板の説明も、なにやら要領を得なかった。

 小さな社の前にある、屋根付きの集会場(最近作られたらしい)や、さらに登って右手にある、遥拝所のように囲われた碑については、その場では得体の知れないものにしか感じられなかった。コンクリートの舗装は粗く、坂をところどころ山から流れてくる水が横断していた。その先にも林業で使われることもあろうか、という広場があり、道は山の中へと続いていたが、さすがにそれより先に進む勇気はないことを二人で確認し、その場を後にした。

 そこから先は、突然聞こえてきた車の左前輪の異音にびくついたり(音は親王陵に着く直前からし始め、去ってすぐ消えた)、いっそう細くなった車道を豪快に水流が横切っているのを驚きながら渡ったりと、永源寺までの名刹めぐりに比すると格段のシュールさを楽しみつつ、ぶじ百済寺の裏に出ることができた。そういえば四月の東近江市でのももクロライブのオープニングで、市長が鈴鹿山脈が背後に控えていることを言っていたが、その山麓と山中をつかのま堪能したわけだった。

 旅、それも「行ったことがない場所に通ったことのない道で行くのが好き」という黒木さんが楽しんでくださって何よりだったのだが、それにも増して、最近は決めた行き先(寺社)ばかりを回っていた自分が、一人では決して行かなかったであろう場所を訪れることができたのが嬉しかった。

 失礼な言い方かもしれないが、木地師資料館も惟喬親王陵も、かなりの旅達者か好事家でなければ訪れたいと思うようなところではない。親王が非業の死を遂げた人物ではないにしても、不遇がまつわる場所ではあり、一人で行けば心細くて仕方がなかっただろう。そのような場所について、親王陵に着いてすぐ、私は過去のある旅を連想していた。

 というのは、数年前の秋、知人と北陸を車で旅行した際のことである。小浜港で遅い昼食をとったあと、すぐに帰ってもよかったのだが、その知人の希望で「暦会館」なる歴史資料館に寄ることになった。何でも陰陽道宗家の土御門家(安倍氏)ゆかりの地だそうで、私は特に興味もなかったのだが、小浜から国道162号線で南下した大飯の名田庄というところにあって、道の駅に併設されている(帰路に着く前に休憩できる)、ということだったし、北陸道敦賀に入った旅行を終えるにあたり、そこから京都縦貫道に出ると美しい一筆書きのルートになると思われたので、喜んで向かうことにした。

 道は渓流に沿って丹波高地に入る方角だったが、平坦で走りやすかった。会館に着いたのは日暮れ近くだった。展示の内容は私には基本的に難しく、またやや陳腐にも感じられたが、知人はそこでしか買えないであろう郷土史を購えたことを喜んでくださった。道の駅で一息つきながら、近くに土御門家の墓所があることを確かめ、最後の目的地とすることにした。

 墓所は車で国道を少し戻って細い車道を山にむかって登ったところにあった。まず茅葺きの大きな薬師堂が目に入った。人気はなく、堂に上がるためのスリッパは埃と虫だらけだった。

 そこから先の印象は、今回の親王陵のものに上書きされてしまって定かではない部分もある。しかし、深い山に分け入る谷間にあり、法要などの行事を除けば「本当にここに入ってよいのか」と思われるほど人の訪れた形跡のないこと(墓所の入り口には厳重にも金網が設置してあった)、史跡としては非常に質素で、由緒書きはなかったか、あっても風化が進んでいたこと、写真を撮る気にならなかったこと、などが共通点として思い出される。観光地として来るところではなく、といって心霊スポットにしても、おそらく怪談とは無縁の静かな墓所であるぶん、怖さと不穏当の度が過ぎるように感じた。

 既にその旅では、知人の希望により、敦賀山田孝雄が務めていた小学校で顕彰碑を見たり、小浜で「お水送り」が行われる若狭神宮寺義門の墓に詣でたり(これらは私の希望でもあったが)、車でないと行きにくく、かつ十分に「渋い」場所を訪れていたのだが、黄昏時の墓所のあやしい雰囲気は知人の想像をも超えていたようだった。

 一人で車に乗って無茶な遠出をすることも楽しいが、いかに時間と行程に余裕があって、観光マップに小さな字で書かれるような郷土の史跡に少しばかりの興味があったとしても、上記のような場所に一人で立って歴史の空気を楽しめるほど、私は図太い性根をしていない。霊感があるわけでもなく、また神隠しなども信じてはいないが、一人でいて不安と非現実感に陥りかけたことも一度ならずあった。

 例えば、昨年夏に佐渡を訪れた時のことである。真野宮は流刑の順徳院を荼毘に付した地で、不釣り合いに俗っぽい観光施設が隣接していた。着いた頃は夕暮れにはまだ早い青空だった。ただ観光施設はもう閉まっていたので、周辺をあてもなく見て回っていたところ、観光客が去るのと交代するかのようにひぐらしが鳴き始めた。本殿の方をふと見ると、神職と思しき老人が一人、なぜか縁にじっと腰を下ろしていた。それを遠目で眺めていると「ここで何をしているのだろう」という気持ちで、夏の風情が妖しくぼやける気がした。翌日朝に訪れた金山近くの「無宿人の墓」では、あまりの寂しい光景に、もっとはっきり「このような場所に一人で来るのではなかった(といって、誰となら一緒に来られるというのか!)」という気持ちになった。

 一方、しっかり記憶を辿れば、決して多くはない他の人との旅で、心細さを風情に変えてもらったことが幾度かある。晩夏の浦島神社と伊根の海、のどかな春の由良湊、岩船寺から浄瑠璃寺へ石仏をたどる秋の道…。二人の先輩も、変なところに来てしまったことを咎め合ったりせず、好奇心と不気味さ、あるいは非現実さの危ういバランスを感じつつも「一人では来ないところだねぇ」と笑ってくださった。

 いずれも、一人では行かない場所に行くために道連れを求めたのではない。人生のある一時に、気まぐれと風変わりな旅を愛する道連れを持てたことのほうが、代えがたい思い出であるに違いない。

(2018.6.18)

随想:瓔珞の影

くわんおん の しろき ひたひ に やうらく の
かげ うごかして かぜ わたる みゆ

 會津八一『鹿鳴集』中、私はこの歌に最も感じ入った。その感想は、きわめて個人的なものであるが、歌とその詠まれた対象に属す客観的な要素と、それを鑑賞する私の主観的な要素の両方にかかって、いくらか複雑である。そのことを気ままに書き留めておきたい。

 『渾斎随筆』巻頭の「観音の瓔珞」(昭和十五年)、『自註鹿鳴集』(昭和二十八年)によれば、ここで歌われたみほとけの像は法輪寺講堂の十一面観音像である。しかし、「モデル」の認定はそう単純なものではない。というのも、当初この歌は「法輪寺にて」との詞書とともに大正十三年の『南京新唱』に収録されており、瓔珞の有無をめぐる錯綜によって、昭和十五年の『鹿鳴集』には奈良博物館蔵の同寺・虚空蔵菩薩像を詠んだものとして再録され、しかし後日、やはり作者が見たものが法輪寺講堂安置の観音像であったことが確認された、といういきさつが作者自身によって語られているからである。

 このエピソードによって、この歌では、歌われた対象が確とした他の歌―例えば東大寺大仏や百済観音―に比して、表現とその対象との結びつきが弱められていると思う。そもそも、他の大寺の諸仏と異なって、私は法輪寺の二像を実際に拝したことがない。従って、その他の歌と違い、「自らの印象と突き合わせながら表現とその対象のむすびつきの確かさを確かめ、作者の意図の周到さと表現の巧みさを味わう」といった形での鑑賞態度ではなく、いくらか自由に主観を巡らすこと、つまり表現によって惹起される対象―それはこの歌においては静的物体のみならず、動的な現象でもあるが―の印象がどのようなものであるのかを、考えてみることの余地があるように思われる。といっても、それは私の経験と、作者自身の解説、それもこの歌に触れた時点をさほど遡らないそれらの、いまだ鮮やかな印象に引きずられたものとなるだろう。

 ことばの響きの美しさがまずある。一句目「くわんおん」と三句目「やうらく」は漢語であるが、語頭のkw音とy音の柔らかさとともに、それぞれ、女性美―少なくとも私にとっては―と、その優美さを象徴しており、漢語としての重さ、固さは感じられない。二つの漢語に挟まれた「しろき ひたひ」という和語はより和語らしく親密に感じられるが、柔らかな漢語に挟まれていることによって、いっそう穏やかな印象を与えられる。四句目「かげ」と五句目「かぜ」の爽やかな響き合い、末尾の「わたる みゆ」の半母音の連続において、その音と「かぜ」が柔らかく開放されていく様も心地よい。

 さて、この歌の大意はもちろん「観世音菩薩像の白い額にうつる瓔珞の影をゆりうごかして、風の吹きわたるのが見える」(吉野秀雄『鹿鳴集註解』)ということであるけれども、その意を実際の像に突き合わせる動機は、上述のように、対象にとっても私にとっても弱い。加えて、この歌に詠み込まれたものが単にみほとけの像容であるのではなく、「風のふきわたる」という「現象」であることによって、それが現実にあった(ある)こととして客体的に吟味することは難しく、また強いてする必要のないことのように思われる。そこにむしろ、私の直感と経験に照らしながら、そのような表現があり得るとすれば、それがどのような対象であるかを検討したくなる契機があるのである。しかしそれは、当然のことながら、現在する特定の像の在り方からは離れ、現実のいかなる場所にも存しないみほとけの像における、架空の現象を想起することに他ならない。一方でそのような心内での吟味は、後に述べるように、まずもって作者の詠想であることも明らかとなっているから、私の素朴であやふやな印象論はその域をいささかも出ないものであるかもしれない。

 そのことに意を留めつつ、ここでは、「くわんおん の しろき ひたひ に やうらく の」の三句と「やうらく の かげ うごかして かぜ わたる みゆ」の三句に分けて、その内容を述べる。「やうらく」は前半と後半の両方に含まれるが、それは、それがその存在のし方によって、私の空想の要になっていることに他ならない。


—くわんおん の しろき ひたひ に やうらく の—

 私にまず惹起されるのは、「くわんおん」の「ひたひ」の「しろさ」が陽光の反射によるものであることと、それが同時に「ひろさ」でもあることである。

 像が陽光を浴びるということは、第一次的には、屋外にいます像でなければならないことになる。しかし、奈良という空間的局限―これは対象をいくから離れた自由な空想においても除くことは難しい―において、むろん、それは新しい時代に鋳造された緑青色の観音像ではない。むしろ陽光が像の頭部に射し入ることのできる、そう大きくはない堂にあるそう大きくはない像を思わせる。例えば東大寺三月堂の巨き不空羂索観音立像や唐招提寺金堂の千手観音立像の頭部には、いかなる季節天候であっても日光が射すことは―少なくとも二つの対象がイメージとして容易に結びつく程度には―ないだろう。

 ここで私にふさわしく思い描かれたのは、7月の半ばに拝した中宮寺の半跏思惟像である。この像は内陣の奥まったところに据えられているが、堂が小さく、かつ南面した戸が開け放たれていたこと、等身大の倚坐像であること、そしてその肌が漆と煙で黒く磨かれていることによって、確かに顔の面まで白い光が射していた。その反射の明るさがなければ、その面貌をようやく捉え得た、という感慨は私になかっただろう。あるいは、私の弱い視覚的記憶を、土門拳のモノクロの接写が深く補強しているのかもしれないが、いずれにしても、夏という時間的局限における中宮寺半跏思惟像の鮮やかな印象が、「しろき ひたひ」を感想することに強く作用していることは間違いがない。

 日光が直射しうる、といった意味では、西面する薬師寺東院堂の、等身大の聖観音立像でも同様の印象を受け得たかもしれない。しかし私が薬師寺を訪れたのはたまたま雨上がりであったこともあり、その青銅の肌が反射する光はキッパリとしたものではなく、弱くぬらぬらとしていた。また、広隆寺不空羂索観音立像は、暗い宝蔵庫の中に安置されており、かつそれ自体が光を放ちうる素材ではなく質素な木の地肌を見せているがゆえに―金箔がおされていたのかどうかは知らず―、また、私が非常な清潔さと六臂に無限の動きを直感したがゆえに、空想において「しろき ひたひ」と結合させることができるかもしれない。しかしそれら二像への想像は、いずれも、記憶の捜索を必要とした。歌に触れて直後の印象においてのことではない。

 けだし、現実に観音菩薩をうつした諸像から離れざるを得ない理由は、イメージの原型となる中宮寺像が「くわんおん」としてあることの微妙さにかかっている。そしてそれが、「ひたひ」の「しろさ」を「ひろさ」として感じることにも連絡している。というのも、中宮寺像は、如意輪観音像と公称されているが、周知のとおり、仏教史・仏教美術史からすれば、それは密教のほとけではありえず、弥勒菩薩像または樹下で思惟する釈迦像と目される。そこでいったん、「くわんおん」という表現と対象の結びつきは否定される―あるいはあいまいになっている―のである。しかしまた、この像が示す理想的な女性美が、観音菩薩と容易に通じるものである点で、名称と形の連携は緊密さを失っていない。

 より重要なことに、この像には「やうらく」が―この「瓔珞」は「本来は、珠玉など七宝を綴り合せて造れる頸飾をいふ語なれども、ここにては、宝冠より垂下せる幾条かの紐形の装飾をいへる(『自註鹿鳴集』)」のであるが―「現存」しない。従って、「白い額にうつる瓔珞」のイメージは、直接に中宮寺像から想起されえないことになる。しかし翻って、弥勒あるいは釈迦、いずれにしても如来ではないこの像が、かつてはその他の装飾品とともに額に宝冠を巡らせていたこともまた指摘されており、それは額に残る小さな跡によっても確認される。つまり、心象においてこの半跏思惟像に「やうらく」を結びつける契機はかすかながら現存しているのである。そればかりか、それが現存しないことによって「やうらく の かげ」は、日光によって生じた陰影のみならず、時の流れの中で失われた幻影の連想を生む。この、風に揺れる瓔珞が現実を離れた歌のモチーフとして心内に在りうる、ということについては、法輪寺十一面観音像を鑑賞して詠んだ作者においても実は同じである。このことは後半部分の解釈にかかるため、後述する。

 瓔珞のない中宮寺像は、額から頭頂部にかけて、白い光を十分に反射しうる「ひろさ」を有している。というのも、中宮寺像は、当初額に取り付けられていた装飾が失われたことによってか、額を区切るためのわずかな段差が摩滅したことによってか、頭部から正面にかけて不自然なほど滑らかな曲面―それは一方で、頭部を飾らない無垢の人間において、頭頂から額へと流れ分かれていく前髪の自然な美しさでもある、と個別主体私が特に感じるのであるが—を持っているからである。このことは、よく似た象容でありながら、前頭部を明瞭に横切る段差によって頭髪が表現されている広隆寺弥勒半跏思惟像と比較すれば、一層明らかである。

 一方、消極の要因として、実在の観音諸像においては「ひたひ」が「ひろい」ものとは、現実でも想像でも私に直感されないということがある。それはつまり、現実に瓔珞や宝冠をまとっているから、ということによる。例えば法隆寺百済観音像は、現実には確かに「白い」と言えようが、その額は宝冠に狭められている。薬師寺東院堂像のように、最も簡素な聖観音においても、頭髪の線が額の「ひろさ」を感じさせないとすれば、諸々の十一面観音像の頭部は多面によっていかにも重く狭められていて、「くわんおん の しろき ひたひ」のイメージとは遠く離れたものとなるだろう。


—やうらく の かげ うごかして かぜ わたる みゆ—

 「かぜ」によって「やうらく」とその「かげ」が動くものであろうか、というのが私の消極的な実感であった。それとの共起、または寸差の継起において、他のあり方でやはり「かげ」は動き、「かぜ」は吹きわたっていくだろう、というのが積極的な印象であった。それらのことは、後述するように、言語表現の解釈のし方にもかかる。

 しかし本来、この点が呼び起こすこもごもの感想は、作者による解説に強いて付け加えるに堪えないのかもしれない。法輪寺講堂の十一面観音像の瓔珞—これは歌のできた頃にはあり、その後取り除かれたものであるが—の旧存を写真で確かめて曰く、「しかし、よく見るに、此の瓔珞たるや、觀音の御額の上に、かぶさるやうに、ほどよく垂れて居るといふのでもないし、又、なかなかたやすく、風やなどで搖れるやうなものでもなかった(『渾斎随筆』)」。ここに強いて私の鑑賞によって言葉を重ねれば、日光の場合と同じく、みほとけが屋外にあるとは思えない以上、直接に強い風にさらされるはずはないし、堂に吹き込んだ微風によっては、木製であれ金属製であれいかなる瓔珞も揺れることがない—実際にそういうことがあったとしても、それを偶然に確かめ得るものとは思えないし、その現象を目の当たりにしても、仏像の重厚あるいは静謐の美にはそぐわない感じがする—ということになる。

 作者は前文に続けて、一方こうも言っている。曰く、「これをば、私の心の中に、忽ち一陣の風を捲き起こして、それを動かしたのかもしれぬ」また、対象と言葉の錯誤の例—「釈迦牟尼は美男におはす」など—を挙げ、「私の方は、觀音の白い額の上に、動きそうも無い瓔珞の影を動かして、其所に微風の吹きわたるのを見たことになる」。もちろん、これが作者自身の追想であるからには、最も自然な解釈としてただちに「作者の意図の周到さと表現の巧みさを味わう」ことに移ってもよいはずである。

 しかし私は歌に触れて直ちに、このような全くの想像として—「動きそうもない瓔珞の影を動かして」―「かげ うごかして かぜ わたる みゆ」を味わったのではなかった。同じく心中においてであるが、半ばは現実に可能であることとして、私は以下のような把握をしたのである。すなわち、鑑賞者私が、みほとけの像を—いずれも想像上の—、いつもそうするように右から左へ、下から上へ眺めている。場所と視線を移動することで、動かない像の面貌と額の瓔珞にさした白い光の影がゆらめき、あたかもその間を風が流れるように見える。

 上下左右、遠近の移動によって静的対象における動きやリズムを感じることについては、法隆寺五重塔の動的な美しさを和辻哲郎が述べているし、薬師寺東塔や、いささか唐突ではあるが、燕子花図屏風の余白と律動性の例を挙げてもよいと思う。また、私自身に記憶されている経験としては、5月に向源寺十一面観音像を拝した際、像を左後方から眺めると、左側の天衣が後方からの風をはらんださまが最もよく感じられ、同時に、みほとけがわずかに右足を踏み出そうとする姿勢との連携において、その前進性が非常に鮮やかにとらえられた。鑑賞時点の私がこれらの一々の例を意識したわけではなく、また私はいかなる仏像においても瓔珞の影を実際に動かして見たことはないのだけれども、そうした表現と対象の結びつけは、心内においてほとんど自然に可能であった。

 次いで私に吟味すべきと思われたのは、その表現である。端的に言えば、「かげ うごかして」の主体(ないし原因)は「かぜ」と考えることが、作者の解説に合致し、文法解釈としても自然である—「かげ うごかして かぜ わたる」において「かぜ」が二つの述語「うごかす」「わたる」の主語として把握し、「みゆ」は事態そのもの—観音ノ白イ額ニ瓔珞ノ影ヲ風ガ動カシナガラ渡ルコト—を主語とした自動性の述語として把握する—のだが、それを「かげ うごかして」の主体を鑑賞者私と考える—「私」と「うごかして」、「かぜ」と「わたる」がそれぞれ主述の組をなし、「みゆ」の主語となるのは「風ガ渡ルコト」となる—ことが可能であるか、ということである。

 前者の解釈は、[[うごかして(述語)―かぜ(主語)―わたる(述語)]みゆ]という、二つの述語の一方が主語に先行する—二つ目の述語によって生じた動的かつ副次的事象を表す語句を、文のより外側に配置する—構造がメリハリの効いた遠心的な美しさを感じさせる。しかし、句末の「みゆ」による総合は、必ずしもそうではない。とりわけ、「くわんおん の しろき ひたい」と「やうらく の かげ」を「うごかす」の二つの対象として含み、かつ「うごかす」「わたる」の二つの現象を並立させる―副と主のバランスこそあれ—という複合的な事態は、「みゆ」一語に対してはいかにも重く、歌が末尾において閉じられてしまう印象を受ける。

 一方、後者では[[(我が)(主語1)―かげ(対象語)―うごかして(述語1)][[かぜ(主語2)―わたる(述語2)]みゆ]]という二組の主述関係による分断がある構造となり、「みゆ」はそれまでの叙述すべてをまとめあげるのではなく、「影を動かす」という出来事とは一応独立に、もっぱらその結果生じてくる出来事を述語することの責任形式としてのみ在る。そのことが、冒頭でも述べたように、「かぜ」そして歌全体が末尾にかけて「柔らかく開放されていく様」を感じさせているとも言える。

 しかしなお、そのような二つの述語の関係が文法的、表現的に容認されるべきものかは、なお慎重に考えなければならない。「私が観音の白い額に影を動かして、風が吹きわたるのが見える」という風な直訳が不自然であるとすれば、自発的な「みゆ」を意志的な「みる」にしない限り、「-て」の形に「文脈によって語用論的に生じる」というもろもろの意味関係のうち、条件的な意味を—「私が影を{動かせば/動かすと}、風が吹きわたるのが見える」のような具合に—読み込まなければならないだろう。

 「眼を凝らすと、相輪に据えられた鎌の傍に同じようなかたちの有明の月が見えた」「講堂跡に立てば大仏殿の喧騒が遠くに聞えた」という表現は現代日本語において全く自然であるが—そしていずれも私の実際の経験であるが—、これらの文における条件の句が、身体の動きの維持あるいは置きどころの定位にかかるものであるのに対し、「しろき ひたひ に ようらく の かげ うごかして」では、対象にはたらきかけることによって生じる(多回的な)動きであって、主体における身体の動きないし立ち位置の移動は表現の外にある。

 そのような事態を通じて、それと別の対象が「見える」あるいは「見る」ことを表現する文は、前二文に比べるとさほど一般的ではないだろう。というのも、動的な事象によって、他の動的な事象を同時的に把握するという事態の特殊性がある。例えば「懐中電灯の光を当てると、薬師仏の表情がよく見えた」のような文は「影を動かす」に比して「光を当てる」が表す動作の維持は静的であって、印象が少しく異なっている。

 またそこには、「対象における動き」といっても、その対象(かげ)は観察さるべき対象そのもの(かぜ)ではないという二重性を見なければならない。これは私の体験しない事態ではあるが、「池の水面を揺らせば、若草山がなびくの見えた」—寧楽美術館の庭であればあり得ないこともないだろうと思う—という文があるとすれば、「かげ」の動きによって「かぜ」の動きを見る、というのと同様に、水面の動きによって、若草山の動きを把握する、という点で、この歌とほぼ同じ意味構造を考えてみることができるだろう。

 しかしまた、そのような事態を自然なものとして述べることの難しさがある。上記の例において、表現の対象となる現実においては「水面を揺らす」ための対象へのはたらきかけの具体的側面、例えば小石を投げ込むとか、どうにかして微風を作るとかの動きを、表現の外に読まなければならないだろう。しかし逆算的に、その働きかけの側面たる具体的な動きが主体における自然な動き—「くわんおん の」の歌においてみほとけを観ずるための移動—であり、それによって自然に生じたあるものの動きが、異なる主体の動きに容易に転換し、かつ動く二つの対象が音のうえで響き合う、といったことが歌の美しさをなすとすれば、「池の水面を揺らす」といった作為は無論、問題にならない。また、「みゆ」が「みる」に変えてみれば、観仏時点において意図的に比喩を作り出そうする(架空の)作者の文字通りの技巧性が、それまでの句を台無しにすることもまた、当然だろう。一方、仮に同じ事象であっても、大意、そして作者による解釈に従えば、例えば「ねいらく の にわ の みなも に わかくさ の かげ うごかして かぜ わたる みゆ」というような歌は—拙さを別にすれば—いちおう、成立する。

 従って、私の現実にありうる事態としての解釈においては、私の断片的な経験とそのあいまいな印象に支えられながら、別の主体やその身体における具体的な動き、さらには二つの現象の間の条件関係といった、言明されていないもろもろの事柄を詠み込まねばならない点で、やはり無理があるのかもしれない。

 しかし、もし「觀音の白い額の上に、動きそうも無い瓔珞の影を動かして、其所に微風の吹きわたるのを見た」という作者のように、現実を越えた想像に鑑賞をゆだねるとすれば、私は、どうせなら、現存する仏像における幻想的事態の重ね合わせではなく、生きたみほとけ—それは釈迦でも観音よいが—を空想したい。

 樹下で微笑みながら瞑想する人の美しくひろい額に、夏の光は白く映えて瓔珞の影を落とし、涼しげな風が額ばかりでなく、閉じたまなじりや口元、そして露わな肩のあたりを吹き抜けていく。ここにおいて「現在する特定の像の在り方」―それは作者にとっては法輪寺の十一面観音像であり私にとっては中宮寺の半跏思惟像であるが—から生まれた印象が、現実には起こりうべくもない現象に対する解釈―作者においては「心の中に、忽ち一陣の風を捲き起こして、それを動かした」のであり、私においては鑑賞者の移動による影の動きを風の動きに重ねたのであるが—を生み、鑑賞者私は「現実のいかなる場所にも存しないみほとけの像における、架空の現象を想起する」に至った、ということになる。

 こうしてみると、私がとかく実地に対象を観じて経験を確かなものにしようと急ぐことは、かえってこの歌を味わうこと—それがいかに拙いものであれ—の妨げになったかもしれない。しかし過去の経験によってもろもろの感想が現れてくることはまた間違いがないのだから、対象の歴史的、空間的な位置が、自然によっても人間によっても変動しうることの不確かさや、対象と名前の関係のあいまいさ—それらはやはり対象そのものに備わる場合と、限られた時空に存する私の経験と記憶に起因する場合の両方にかかると思われるのだが—、さらには対象の不定性―例えば「観音」「石仏」といった一般的概念とその印象は、ある特定の像が持つそれとは異なる—こそが、白い額に影を自在に動かしてみるが如く、ひそやかでも自由な楽しみを生んだのかもしれない。