大岡昇平『ながい旅』:「真生塾」に関して

 梯久美子『昭和の遺書:55人の魂の記録』(文春新書)を読み、大岡昇平が岡田資元陸軍中将の戦犯裁判を描いた『ながい旅』を読みたく思ったのだが、ちょうど引っ越し後の荷解きで積読本の箱から角川文庫版(2007年刊、底本は1982年新潮社刊の単行本)が出てきたので読むことにした。

 冒頭から「大岡昇平ってこんなに不明瞭な(整理されていない)文章を書くんだったか、という違和感を持ちながら読んでいた。例えば、以下のような文である(36頁)。

 軍によって扱いが違ったのは勿論である。東部軍(東京)では、軍律会議を開かず、六十二名を渋谷の陸軍刑務所に収容してあった(中央では早くも手をあげるのか、との声があったという)。

 五月二十五~六日にわたる東京空襲の際、刑務所を何かの軍事施設と間違えたのか、三度繰り返して爆撃し、全員爆死した。ただし同じ刑務所に、吉田茂ほか二名が、休戦工作の疑いで収監されていたが、彼等をすぐいまの代々木公園、当時代々木練兵場へ避難させたが、米搭乗員は後廻しになったので、所長以下五名が死刑を宣せられている(『史実記録、戦争裁判横浜法廷(一)B・C級』東潮社、昭和四十二年)。

 二段落目第一文の「爆死した」の主語が前文の「六十二名」もしくは後文の「米搭乗員」であることはわかるにしても、「爆撃し」と主語が違うので、省略されると戸惑う。また、二文目は「ただし」のカカリ先が不明瞭で、「~が」も連続していて、単純に悪文だろう。

 さて、岡田元中将は東海軍管区(兼第十三方面軍司令官)として空襲後捕虜となった米軍兵士(阪神地域の空襲後に撃墜された後、東海地方に降下して捕まった兵士も含む)の処刑に関わったとして起訴される。裁判では弁護側が空襲が戦略施設以外をも対象とした無差別爆撃であったことを立証しようとするのだが、弁護側証人に、東海以外で空襲に遭った人々として神戸の孤児院の院長が出てくる。

 地元ということでふと気になり、ネットで調べてみたところ、今も神戸の中山手通(山の手小学校のあるあたり)で、社会福祉法人として後継の児童養護施設や保育園が存続していることを知った。「古書片岡』に行くついでに歩いたことがあり、宇治川につながる狭い水路にも覚えがあったが、証言中の孤児院や母子寮の被災は、初めて知った事柄だった。また、大倉山に高射砲陣地があったことも知らなかった。

 しかし同時に、当該孤児院の名前や位置に関する大岡の記述は不正確・不十分であることもわかった。以下の点は、その他の事実誤認の訂正が入った新潮文庫版(1986年刊、電子書籍で確認)でも改められていないので、ここで書き留めておく。

 

1.名前について

 「新生塾」ではなく「真生塾」が正しい。

  社会福祉法人神戸真生塾 沿革 

 以下、本文の引用(角川文庫版、126頁)

 二十番目の証人、水谷愛子、五十歳は神戸市生田区中山手通七丁目、財団法人新生塾孤児院の院長で、三児の母であった。 

 問「新生塾孤児院とは何ですか」 

 答「私の父が、明治二十三年に建て、最初は『神戸孤児院』と呼ばれていましたが、昭和十六年、今の名称に改めたのです。捨児、浮浪児、それから家庭の事情で孤児になった者を預かっていたので、生れたばかりの赤ん坊から、十四、五歳の児童までいました」

 映画版(『明日への遺言』)では田中裕子がこの院長を演じているようだが、キャスト紹介などでは訂正されているのだろうか(観なきゃ)。

 

2.位置について

 上記の「中山手通七丁目」という真生塾の住所じたいは正しい。しかし、以下のように、大岡はなぜか真生塾の存在を見落としている。真生塾は空襲で全焼後、1947年には再建され、執筆当時も同じ場所に存在していたはずである。

 以下、本文の引用(同、128-129頁)

 新生塾所在の生田区中山手通は、今日では風見鶏で有名な外人住宅のある上山手通より一筋下の、神戸市後背山地を横に這う通りだが、七丁目はその最も西で地域も広くなり、住宅地区でもあり、施設地区ともいえる。女子中高、親和学園はいまでもあり、神戸中央病院もある。ただ新生塾に当るものは現在の地図には見当らない。

 次の点も、この箇所の記述を疑わしくする。

 「上山手通」は存在せず(以下のブログによれば明治時代にはあったらしいが)、「風見鶏の館」があるのは北野町である。大岡は帝国酸素勤務時代に神戸(今の王子公園の辺り)に住んでいたこともあるから、慣用で見聞きしていたのかもしれないが‥。

 とも姐の神戸散歩:(1) 下山手通、中山手通はあるのに上山手通がない!?

 また、六甲に移転する前の親和学園があったのは「中山手通」ではなく「下山手通」である。

 学校法人親和学園 学園の沿革

 

 ちなみに神戸中央病院は正式名称を「社会保険神戸中央病院」といい、1948年に中山手通で開院されたらしい(同名の病院は北区に移転し、付近には別の病院が建っている)。

 地域医療機能推進機構神戸中央病院 病院長挨拶 

 織田哲 ・飯島庸司(1987)「社会保険神戸中央病院」『病院』46巻2号、医学書院

 今の地図では「中山手通七丁目」と 「下山手通七丁目」が隣接していて紛らわしく見えるが、1980年に区画変更があったようなので、執筆当時のことはわからない。それにしても近いことには変わりがないのに、見落とすことがあるだろうか。著者以外、誰も確認を取らなかったのだろうか。

 新潮文庫版の「文庫版あとがき」には、「昭和五十六年にこの作品を書いた頃は、体調が一番悪くて、新聞連載に堪えられるかどうか問題だったくらいだが、その後、奇妙に体調を取り戻して今日に至り、文庫改訂版を出すことができたのは、幸せであった」とある。文体の乱れ(?)や、上記を含む事実の誤認、詰め不足を、晩年の衰え、というにはいかにも寂しい。

 

ながい旅
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