薬師寺にて(2018.6.7)

 薬師寺で嫌なものを見た。

 一年前に見逃した東院堂の聖観音像を拝んだあと、薬師如来坐像をゆっくり眺めようと金堂に入ったところ、一見して東アジア出身と思われる十名ほどの一団が、本尊を眺めていた。何人かは僧と思われる格好で、若い人はカジュアルな服装だったが、いずれも静かに仏像の方を見ていた。午前中の強い雨は既にやみ、東院堂では観音の反射するてらてらとした光が気を散じさせた。しかし、日光に直射されない丈六坐像の肌が放つ光は「ちょうどよい明るさ」と感じられた。

 私は、彼らの背後に立つと邪魔だろうと思い、また珍しく気が急いてもいなかったので、こっそり『古寺巡礼』の薬師寺の箇所を確認しておこうと、右手の柱の陰にある床几に腰を下ろした。私と同じように腰かけている人がほかに数名いた。

 すると、僧らしき男性の低い声を中心に、経文の唱和が始まった。節のある短い四句の繰り返しで、一句目はわからなかったのだが、あとの"namo buddhaya, namo dharmaya, namo sanghaya(帰依仏、帰依法、帰依僧)"はすぐに聞き取れた。私の位置からは彼らの姿は見えず、自然、三尊の横顔を眺めながら、男女の声の物悲しい抑揚を聞くのは偶然にも非常な風情があった。

 次に「開経偈」や「懺悔文」のような短い経文と、おそらく「般若心経」が中国語で読まれた。短い経文は僧職の男性に他が先導されてゆっくりと、「般若心経」はかなりの早口で、途切れがちの声もあったが、それでも全体として張りのある読経を、彼らの出身や薬師寺を訪れた理由などを想像しながら興味深く聞いていた。右の脇侍である月光菩薩の胸元が、汗をかいたように濡れていることにも、その時気がついた。

 読経が薬師如来真言(これはリズムでそうとわかった)に切り替わったあたりで、彼らの祈る姿を見てみようと思い、柱の陰から出た。とほぼ同時に、日本人の声で「長い間、前を占拠しないでください。やめてください。迷惑なんです」という意味の言葉が聞かれた。何だ、と思って見ると、堂内の売店の寺務員が一団の近くに立って彼らを眺めていた。

 私はとっさに、もうここを出よう、と思った。一団は日本語の注意が聞こえなかったのか、理解できなかったのか、真言を繰り返している。私は、素人でも思い当るような、一つの教えの共通言語による祈りを、寺の者が彼らの介しない言葉で遮ろうとしたということに、ほとんど瞬時に、絶望的な気持ちになった。寺務員はさらに彼らの視界に入る位置に歩み寄り、静かな薬師如来とその信徒の前で、大きな咳ばらいをした。私は彼らの背後を通り過ぎながら、暫時でも「胸の前に開いた右手の指の、とろっとした柔らかな光」を確認しようとしたが、もう心は強張ってしまっていた。

 今までにも高圧的な寺務員には何回か嫌な思いをしたことがあった。例えば、東寺で金堂を順路と逆に見て周ろうとして咎められたり、相国寺で確かに手渡したはずの拝観料を直後に再び求められたりするのは、決していい気持ちではなかった。だがそれはいずれも観光客で混雑した寺院でのことであり、彼らが人の流れを捌くことに倦んでしまっているのは俗な観光客の一人たる私のせいでもあるのだと思うと、深くは幻滅しなかった。

 しかし、すばらしい仏像のある堂内で読経している信徒を邪魔者扱いする関係者など、見たことがなかった。例えば三十三間堂のような狭い内陣で、外国の仏教徒五体投地しているのを、ほかの観光客が奇異の目で見ることはあっても、である。それを、薬師寺の広い金堂、しかも一団以外には五名といないところで、ものの五分のお勤めをするのを迷惑とは。そうであるなら「堂内の撮影禁止」と同じように「仏前での五分以上の読経禁止」とでも掲示を増やせばよい。

 何より、もし彼らが、かつて仏教を日本にもたらしながら法灯のすでに絶えた国の仏教徒であるとすれば、日本の古寺で勤行をしていることは喜ばしいことではないのか。入山して正式な僧の資格を得る時間もお金もないために、観光がてら簡単な授戒や灌頂ですませる、ということが仮にあったとしても(これが私の考えうる最も意地の悪い見方だが)彼らが日本で技術や財産より得がたいものを学んで持ち帰ろうとすることを、まずは尊ぶべきではないのか。

 この寺を通過する多くの人間の中に、誰かの祈りをやめさせてでも、間近で仏を見せるべき者がどれほどいるだろうか。少なくとも私はそうではない。確かに私には、金堂を去るときも去ってのちも、「とろけるような美しさ」を確かめ得なかったことが惜しく思われた。どのような寺院でも、できることなら一堂を独占して好ましい像を心ゆくまで眺めていたいと思うし、そのせいで気が急くこともある。

 しかしそれは形あるもの、華美なるものへの執着であり、仏陀が離れよと説いたはずのものである。そうであれば、寺務員の目に、私は、彼らを排除してまで仏像を眺めることを望むような、さもしげな人間として映ったのかもしれない。
 仏像も塔もそもそも虚しいが、それら自身がそれらを厭わせることはない。器に執着する者が、汚れるからといって、そこに盛るべき信心の実を捨て、器をいっそう虚ろに、卑しいものにしているのだ。

(2018.6.7)

付記: かつて徹底的に大衆にくみすることで堂宇を再建したこの寺において、また自らがその恩恵を受けて気軽に拝観ができることを忘れて「日本仏教の堕落ないし排他性」といったことを云々するつもりはない。前管主の辞任とこの出来事とを引きつけるのは、言うも愚かである。しかし、この出来事直後から今まで、粘着質で抜きがたい憤りからこの小文を書いたこと、そしてそれが、言うことが快いばかりで無内容な怒りに身を任せるより、ずっとたちの悪い「瞋」にとらわれていることは自覚している。