随想:瓔珞の影

くわんおん の しろき ひたひ に やうらく の
かげ うごかして かぜ わたる みゆ

 會津八一『鹿鳴集』中、私はこの歌に最も感じ入った。その感想は、きわめて個人的なものであるが、歌とその詠まれた対象に属す客観的な要素と、それを鑑賞する私の主観的な要素の両方にかかって、いくらか複雑である。そのことを気ままに書き留めておきたい。

 『渾斎随筆』巻頭の「観音の瓔珞」(昭和十五年)、『自註鹿鳴集』(昭和二十八年)によれば、ここで歌われたみほとけの像は法輪寺講堂の十一面観音像である。しかし、「モデル」の認定はそう単純なものではない。というのも、当初この歌は「法輪寺にて」との詞書とともに大正十三年の『南京新唱』に収録されており、瓔珞の有無をめぐる錯綜によって、昭和十五年の『鹿鳴集』には奈良博物館蔵の同寺・虚空蔵菩薩像を詠んだものとして再録され、しかし後日、やはり作者が見たものが法輪寺講堂安置の観音像であったことが確認された、といういきさつが作者自身によって語られているからである。

 このエピソードによって、この歌では、歌われた対象が確とした他の歌―例えば東大寺大仏や百済観音―に比して、表現とその対象との結びつきが弱められていると思う。そもそも、他の大寺の諸仏と異なって、私は法輪寺の二像を実際に拝したことがない。従って、その他の歌と違い、「自らの印象と突き合わせながら表現とその対象のむすびつきの確かさを確かめ、作者の意図の周到さと表現の巧みさを味わう」といった形での鑑賞態度ではなく、いくらか自由に主観を巡らすこと、つまり表現によって惹起される対象―それはこの歌においては静的物体のみならず、動的な現象でもあるが―の印象がどのようなものであるのかを、考えてみることの余地があるように思われる。といっても、それは私の経験と、作者自身の解説、それもこの歌に触れた時点をさほど遡らないそれらの、いまだ鮮やかな印象に引きずられたものとなるだろう。

 ことばの響きの美しさがまずある。一句目「くわんおん」と三句目「やうらく」は漢語であるが、語頭のkw音とy音の柔らかさとともに、それぞれ、女性美―少なくとも私にとっては―と、その優美さを象徴しており、漢語としての重さ、固さは感じられない。二つの漢語に挟まれた「しろき ひたひ」という和語はより和語らしく親密に感じられるが、柔らかな漢語に挟まれていることによって、いっそう穏やかな印象を与えられる。四句目「かげ」と五句目「かぜ」の爽やかな響き合い、末尾の「わたる みゆ」の半母音の連続において、その音と「かぜ」が柔らかく開放されていく様も心地よい。

 さて、この歌の大意はもちろん「観世音菩薩像の白い額にうつる瓔珞の影をゆりうごかして、風の吹きわたるのが見える」(吉野秀雄『鹿鳴集註解』)ということであるけれども、その意を実際の像に突き合わせる動機は、上述のように、対象にとっても私にとっても弱い。加えて、この歌に詠み込まれたものが単にみほとけの像容であるのではなく、「風のふきわたる」という「現象」であることによって、それが現実にあった(ある)こととして客体的に吟味することは難しく、また強いてする必要のないことのように思われる。そこにむしろ、私の直感と経験に照らしながら、そのような表現があり得るとすれば、それがどのような対象であるかを検討したくなる契機があるのである。しかしそれは、当然のことながら、現在する特定の像の在り方からは離れ、現実のいかなる場所にも存しないみほとけの像における、架空の現象を想起することに他ならない。一方でそのような心内での吟味は、後に述べるように、まずもって作者の詠想であることも明らかとなっているから、私の素朴であやふやな印象論はその域をいささかも出ないものであるかもしれない。

 そのことに意を留めつつ、ここでは、「くわんおん の しろき ひたひ に やうらく の」の三句と「やうらく の かげ うごかして かぜ わたる みゆ」の三句に分けて、その内容を述べる。「やうらく」は前半と後半の両方に含まれるが、それは、それがその存在のし方によって、私の空想の要になっていることに他ならない。


—くわんおん の しろき ひたひ に やうらく の—

 私にまず惹起されるのは、「くわんおん」の「ひたひ」の「しろさ」が陽光の反射によるものであることと、それが同時に「ひろさ」でもあることである。

 像が陽光を浴びるということは、第一次的には、屋外にいます像でなければならないことになる。しかし、奈良という空間的局限―これは対象をいくから離れた自由な空想においても除くことは難しい―において、むろん、それは新しい時代に鋳造された緑青色の観音像ではない。むしろ陽光が像の頭部に射し入ることのできる、そう大きくはない堂にあるそう大きくはない像を思わせる。例えば東大寺三月堂の巨き不空羂索観音立像や唐招提寺金堂の千手観音立像の頭部には、いかなる季節天候であっても日光が射すことは―少なくとも二つの対象がイメージとして容易に結びつく程度には―ないだろう。

 ここで私にふさわしく思い描かれたのは、7月の半ばに拝した中宮寺の半跏思惟像である。この像は内陣の奥まったところに据えられているが、堂が小さく、かつ南面した戸が開け放たれていたこと、等身大の倚坐像であること、そしてその肌が漆と煙で黒く磨かれていることによって、確かに顔の面まで白い光が射していた。その反射の明るさがなければ、その面貌をようやく捉え得た、という感慨は私になかっただろう。あるいは、私の弱い視覚的記憶を、土門拳のモノクロの接写が深く補強しているのかもしれないが、いずれにしても、夏という時間的局限における中宮寺半跏思惟像の鮮やかな印象が、「しろき ひたひ」を感想することに強く作用していることは間違いがない。

 日光が直射しうる、といった意味では、西面する薬師寺東院堂の、等身大の聖観音立像でも同様の印象を受け得たかもしれない。しかし私が薬師寺を訪れたのはたまたま雨上がりであったこともあり、その青銅の肌が反射する光はキッパリとしたものではなく、弱くぬらぬらとしていた。また、広隆寺不空羂索観音立像は、暗い宝蔵庫の中に安置されており、かつそれ自体が光を放ちうる素材ではなく質素な木の地肌を見せているがゆえに―金箔がおされていたのかどうかは知らず―、また、私が非常な清潔さと六臂に無限の動きを直感したがゆえに、空想において「しろき ひたひ」と結合させることができるかもしれない。しかしそれら二像への想像は、いずれも、記憶の捜索を必要とした。歌に触れて直後の印象においてのことではない。

 けだし、現実に観音菩薩をうつした諸像から離れざるを得ない理由は、イメージの原型となる中宮寺像が「くわんおん」としてあることの微妙さにかかっている。そしてそれが、「ひたひ」の「しろさ」を「ひろさ」として感じることにも連絡している。というのも、中宮寺像は、如意輪観音像と公称されているが、周知のとおり、仏教史・仏教美術史からすれば、それは密教のほとけではありえず、弥勒菩薩像または樹下で思惟する釈迦像と目される。そこでいったん、「くわんおん」という表現と対象の結びつきは否定される―あるいはあいまいになっている―のである。しかしまた、この像が示す理想的な女性美が、観音菩薩と容易に通じるものである点で、名称と形の連携は緊密さを失っていない。

 より重要なことに、この像には「やうらく」が―この「瓔珞」は「本来は、珠玉など七宝を綴り合せて造れる頸飾をいふ語なれども、ここにては、宝冠より垂下せる幾条かの紐形の装飾をいへる(『自註鹿鳴集』)」のであるが―「現存」しない。従って、「白い額にうつる瓔珞」のイメージは、直接に中宮寺像から想起されえないことになる。しかし翻って、弥勒あるいは釈迦、いずれにしても如来ではないこの像が、かつてはその他の装飾品とともに額に宝冠を巡らせていたこともまた指摘されており、それは額に残る小さな跡によっても確認される。つまり、心象においてこの半跏思惟像に「やうらく」を結びつける契機はかすかながら現存しているのである。そればかりか、それが現存しないことによって「やうらく の かげ」は、日光によって生じた陰影のみならず、時の流れの中で失われた幻影の連想を生む。この、風に揺れる瓔珞が現実を離れた歌のモチーフとして心内に在りうる、ということについては、法輪寺十一面観音像を鑑賞して詠んだ作者においても実は同じである。このことは後半部分の解釈にかかるため、後述する。

 瓔珞のない中宮寺像は、額から頭頂部にかけて、白い光を十分に反射しうる「ひろさ」を有している。というのも、中宮寺像は、当初額に取り付けられていた装飾が失われたことによってか、額を区切るためのわずかな段差が摩滅したことによってか、頭部から正面にかけて不自然なほど滑らかな曲面―それは一方で、頭部を飾らない無垢の人間において、頭頂から額へと流れ分かれていく前髪の自然な美しさでもある、と個別主体私が特に感じるのであるが—を持っているからである。このことは、よく似た象容でありながら、前頭部を明瞭に横切る段差によって頭髪が表現されている広隆寺弥勒半跏思惟像と比較すれば、一層明らかである。

 一方、消極の要因として、実在の観音諸像においては「ひたひ」が「ひろい」ものとは、現実でも想像でも私に直感されないということがある。それはつまり、現実に瓔珞や宝冠をまとっているから、ということによる。例えば法隆寺百済観音像は、現実には確かに「白い」と言えようが、その額は宝冠に狭められている。薬師寺東院堂像のように、最も簡素な聖観音においても、頭髪の線が額の「ひろさ」を感じさせないとすれば、諸々の十一面観音像の頭部は多面によっていかにも重く狭められていて、「くわんおん の しろき ひたひ」のイメージとは遠く離れたものとなるだろう。


—やうらく の かげ うごかして かぜ わたる みゆ—

 「かぜ」によって「やうらく」とその「かげ」が動くものであろうか、というのが私の消極的な実感であった。それとの共起、または寸差の継起において、他のあり方でやはり「かげ」は動き、「かぜ」は吹きわたっていくだろう、というのが積極的な印象であった。それらのことは、後述するように、言語表現の解釈のし方にもかかる。

 しかし本来、この点が呼び起こすこもごもの感想は、作者による解説に強いて付け加えるに堪えないのかもしれない。法輪寺講堂の十一面観音像の瓔珞—これは歌のできた頃にはあり、その後取り除かれたものであるが—の旧存を写真で確かめて曰く、「しかし、よく見るに、此の瓔珞たるや、觀音の御額の上に、かぶさるやうに、ほどよく垂れて居るといふのでもないし、又、なかなかたやすく、風やなどで搖れるやうなものでもなかった(『渾斎随筆』)」。ここに強いて私の鑑賞によって言葉を重ねれば、日光の場合と同じく、みほとけが屋外にあるとは思えない以上、直接に強い風にさらされるはずはないし、堂に吹き込んだ微風によっては、木製であれ金属製であれいかなる瓔珞も揺れることがない—実際にそういうことがあったとしても、それを偶然に確かめ得るものとは思えないし、その現象を目の当たりにしても、仏像の重厚あるいは静謐の美にはそぐわない感じがする—ということになる。

 作者は前文に続けて、一方こうも言っている。曰く、「これをば、私の心の中に、忽ち一陣の風を捲き起こして、それを動かしたのかもしれぬ」また、対象と言葉の錯誤の例—「釈迦牟尼は美男におはす」など—を挙げ、「私の方は、觀音の白い額の上に、動きそうも無い瓔珞の影を動かして、其所に微風の吹きわたるのを見たことになる」。もちろん、これが作者自身の追想であるからには、最も自然な解釈としてただちに「作者の意図の周到さと表現の巧みさを味わう」ことに移ってもよいはずである。

 しかし私は歌に触れて直ちに、このような全くの想像として—「動きそうもない瓔珞の影を動かして」―「かげ うごかして かぜ わたる みゆ」を味わったのではなかった。同じく心中においてであるが、半ばは現実に可能であることとして、私は以下のような把握をしたのである。すなわち、鑑賞者私が、みほとけの像を—いずれも想像上の—、いつもそうするように右から左へ、下から上へ眺めている。場所と視線を移動することで、動かない像の面貌と額の瓔珞にさした白い光の影がゆらめき、あたかもその間を風が流れるように見える。

 上下左右、遠近の移動によって静的対象における動きやリズムを感じることについては、法隆寺五重塔の動的な美しさを和辻哲郎が述べているし、薬師寺東塔や、いささか唐突ではあるが、燕子花図屏風の余白と律動性の例を挙げてもよいと思う。また、私自身に記憶されている経験としては、5月に向源寺十一面観音像を拝した際、像を左後方から眺めると、左側の天衣が後方からの風をはらんださまが最もよく感じられ、同時に、みほとけがわずかに右足を踏み出そうとする姿勢との連携において、その前進性が非常に鮮やかにとらえられた。鑑賞時点の私がこれらの一々の例を意識したわけではなく、また私はいかなる仏像においても瓔珞の影を実際に動かして見たことはないのだけれども、そうした表現と対象の結びつけは、心内においてほとんど自然に可能であった。

 次いで私に吟味すべきと思われたのは、その表現である。端的に言えば、「かげ うごかして」の主体(ないし原因)は「かぜ」と考えることが、作者の解説に合致し、文法解釈としても自然である—「かげ うごかして かぜ わたる」において「かぜ」が二つの述語「うごかす」「わたる」の主語として把握し、「みゆ」は事態そのもの—観音ノ白イ額ニ瓔珞ノ影ヲ風ガ動カシナガラ渡ルコト—を主語とした自動性の述語として把握する—のだが、それを「かげ うごかして」の主体を鑑賞者私と考える—「私」と「うごかして」、「かぜ」と「わたる」がそれぞれ主述の組をなし、「みゆ」の主語となるのは「風ガ渡ルコト」となる—ことが可能であるか、ということである。

 前者の解釈は、[[うごかして(述語)―かぜ(主語)―わたる(述語)]みゆ]という、二つの述語の一方が主語に先行する—二つ目の述語によって生じた動的かつ副次的事象を表す語句を、文のより外側に配置する—構造がメリハリの効いた遠心的な美しさを感じさせる。しかし、句末の「みゆ」による総合は、必ずしもそうではない。とりわけ、「くわんおん の しろき ひたい」と「やうらく の かげ」を「うごかす」の二つの対象として含み、かつ「うごかす」「わたる」の二つの現象を並立させる―副と主のバランスこそあれ—という複合的な事態は、「みゆ」一語に対してはいかにも重く、歌が末尾において閉じられてしまう印象を受ける。

 一方、後者では[[(我が)(主語1)―かげ(対象語)―うごかして(述語1)][[かぜ(主語2)―わたる(述語2)]みゆ]]という二組の主述関係による分断がある構造となり、「みゆ」はそれまでの叙述すべてをまとめあげるのではなく、「影を動かす」という出来事とは一応独立に、もっぱらその結果生じてくる出来事を述語することの責任形式としてのみ在る。そのことが、冒頭でも述べたように、「かぜ」そして歌全体が末尾にかけて「柔らかく開放されていく様」を感じさせているとも言える。

 しかしなお、そのような二つの述語の関係が文法的、表現的に容認されるべきものかは、なお慎重に考えなければならない。「私が観音の白い額に影を動かして、風が吹きわたるのが見える」という風な直訳が不自然であるとすれば、自発的な「みゆ」を意志的な「みる」にしない限り、「-て」の形に「文脈によって語用論的に生じる」というもろもろの意味関係のうち、条件的な意味を—「私が影を{動かせば/動かすと}、風が吹きわたるのが見える」のような具合に—読み込まなければならないだろう。

 「眼を凝らすと、相輪に据えられた鎌の傍に同じようなかたちの有明の月が見えた」「講堂跡に立てば大仏殿の喧騒が遠くに聞えた」という表現は現代日本語において全く自然であるが—そしていずれも私の実際の経験であるが—、これらの文における条件の句が、身体の動きの維持あるいは置きどころの定位にかかるものであるのに対し、「しろき ひたひ に ようらく の かげ うごかして」では、対象にはたらきかけることによって生じる(多回的な)動きであって、主体における身体の動きないし立ち位置の移動は表現の外にある。

 そのような事態を通じて、それと別の対象が「見える」あるいは「見る」ことを表現する文は、前二文に比べるとさほど一般的ではないだろう。というのも、動的な事象によって、他の動的な事象を同時的に把握するという事態の特殊性がある。例えば「懐中電灯の光を当てると、薬師仏の表情がよく見えた」のような文は「影を動かす」に比して「光を当てる」が表す動作の維持は静的であって、印象が少しく異なっている。

 またそこには、「対象における動き」といっても、その対象(かげ)は観察さるべき対象そのもの(かぜ)ではないという二重性を見なければならない。これは私の体験しない事態ではあるが、「池の水面を揺らせば、若草山がなびくの見えた」—寧楽美術館の庭であればあり得ないこともないだろうと思う—という文があるとすれば、「かげ」の動きによって「かぜ」の動きを見る、というのと同様に、水面の動きによって、若草山の動きを把握する、という点で、この歌とほぼ同じ意味構造を考えてみることができるだろう。

 しかしまた、そのような事態を自然なものとして述べることの難しさがある。上記の例において、表現の対象となる現実においては「水面を揺らす」ための対象へのはたらきかけの具体的側面、例えば小石を投げ込むとか、どうにかして微風を作るとかの動きを、表現の外に読まなければならないだろう。しかし逆算的に、その働きかけの側面たる具体的な動きが主体における自然な動き—「くわんおん の」の歌においてみほとけを観ずるための移動—であり、それによって自然に生じたあるものの動きが、異なる主体の動きに容易に転換し、かつ動く二つの対象が音のうえで響き合う、といったことが歌の美しさをなすとすれば、「池の水面を揺らす」といった作為は無論、問題にならない。また、「みゆ」が「みる」に変えてみれば、観仏時点において意図的に比喩を作り出そうする(架空の)作者の文字通りの技巧性が、それまでの句を台無しにすることもまた、当然だろう。一方、仮に同じ事象であっても、大意、そして作者による解釈に従えば、例えば「ねいらく の にわ の みなも に わかくさ の かげ うごかして かぜ わたる みゆ」というような歌は—拙さを別にすれば—いちおう、成立する。

 従って、私の現実にありうる事態としての解釈においては、私の断片的な経験とそのあいまいな印象に支えられながら、別の主体やその身体における具体的な動き、さらには二つの現象の間の条件関係といった、言明されていないもろもろの事柄を詠み込まねばならない点で、やはり無理があるのかもしれない。

 しかし、もし「觀音の白い額の上に、動きそうも無い瓔珞の影を動かして、其所に微風の吹きわたるのを見た」という作者のように、現実を越えた想像に鑑賞をゆだねるとすれば、私は、どうせなら、現存する仏像における幻想的事態の重ね合わせではなく、生きたみほとけ—それは釈迦でも観音よいが—を空想したい。

 樹下で微笑みながら瞑想する人の美しくひろい額に、夏の光は白く映えて瓔珞の影を落とし、涼しげな風が額ばかりでなく、閉じたまなじりや口元、そして露わな肩のあたりを吹き抜けていく。ここにおいて「現在する特定の像の在り方」―それは作者にとっては法輪寺の十一面観音像であり私にとっては中宮寺の半跏思惟像であるが—から生まれた印象が、現実には起こりうべくもない現象に対する解釈―作者においては「心の中に、忽ち一陣の風を捲き起こして、それを動かした」のであり、私においては鑑賞者の移動による影の動きを風の動きに重ねたのであるが—を生み、鑑賞者私は「現実のいかなる場所にも存しないみほとけの像における、架空の現象を想起する」に至った、ということになる。

 こうしてみると、私がとかく実地に対象を観じて経験を確かなものにしようと急ぐことは、かえってこの歌を味わうこと—それがいかに拙いものであれ—の妨げになったかもしれない。しかし過去の経験によってもろもろの感想が現れてくることはまた間違いがないのだから、対象の歴史的、空間的な位置が、自然によっても人間によっても変動しうることの不確かさや、対象と名前の関係のあいまいさ—それらはやはり対象そのものに備わる場合と、限られた時空に存する私の経験と記憶に起因する場合の両方にかかると思われるのだが—、さらには対象の不定性―例えば「観音」「石仏」といった一般的概念とその印象は、ある特定の像が持つそれとは異なる—こそが、白い額に影を自在に動かしてみるが如く、ひそやかでも自由な楽しみを生んだのかもしれない。